なかった、凡そ以前のゼーロンには見出すことの出来なかった驚くべき臆病さである。
これにはじめて勢いを得たゼーロンは、野花のさかんな河堤をまっしぐらに駆け出したのである。私は、この時とばかりに努めて、口笛と交互に緩急な Ballad を鞭にして、「こわれかかった車」のスピードを操《あやつ》った。ゼーロンの脚さばきは跛であったから駆ければ駆ける程乱雑な野蛮な音響を巻き起し、口腔をだらしもなく虚空《こくう》に向けて歯をむき出し、二つの鼻腔から吐き出す太い二本の煙の棒で澄明な陽光《ひかり》を粉砕した。私は、こんな物音ばかり凄まじいボロ汽関車を操縦して、行手の嶮《けわ》しい山径《やまみち》を越えなければならないかと思うと、急に背中の荷物が重味を増して来て、稍々《やや》ともすると荘重な華麗な声調を要する筈の唱歌が震えて絶え入りそうになったが、そんな気配を悟られてまたもやゼーロンの気勢がくじけたら一大事だと憂えたから、血を吐く思いの悲壮な喉を搾りあげて、魔の住む沼も茨《いばら》の径も、吾が往《ゆ》く駒《こま》の蹄に蹴られ……と、乱脈なヒクソスの進軍歌を喚《わめ》きたてながら、吾と吾が胸を滅多打ちの銅鑼《どら》と掻き鳴らす乱痴気騒ぎの風を巻き起してここを先途と突進した。なぜなら私は、或る理由でどんな村人に出遇っても具合の悪い状態であったから、本来ならば最も速やかな風になってここらあたりは駆け抜けてしまわなければならなかったのである。それ故塚田村でもその村道を選べばこんな河原づたいをするよりは倍も近道であったが、余儀なくかなたの鎮守の森を左手に畦道《あぜみち》を伝って大迂回《だいうかい》をしながら凡そ一里に近い弧を描いた。そして次の猪鼻《いのはな》村を目指しているのであった。私はあちこちの段々畑や野良の中で立働いている人々が、この騒ぎに顔を挙げようとするのを惧《おそ》れて、人々の点在の有無に従って、交互に慌《あわただ》しく己れの上体を米つきバッタのようにゼーロンの鬣の蔭に飜しながら尊大な歌を続けて冷汗を搾った。この不規則に激烈な運動につれて背中の荷物は思わず跳ねあがって私の後頭部にゴツンと突き当ったり、背骨一杯を息も止まれと云わんばかりにハタきつけたりしたが私は、やがて到達すべきピエル・フォンの「森蔭深き城砦の」饗宴《きょうえん》の卓を眼蓋の裏に描きながら、この猛烈な苦悶に殉じた。
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