なかつた。
「あれ、小さい奥さまぢやない?」
 お妙が突然甲高い声を挙げたので、向うの繁みの方をお蝶が見ると、子供を伴れた、たしかに樽野の悴の女房が、ぶらり/\歩いて来る。女房は、短い海老茶袴のやうなものゝ上に、男のものでもありさうな毛糸のジヤケトを着て、ぷか/\と煙草を喫《ふか》してゐる。
「さうよ、さうだわ。」とお蝶も頓興な声をあげた。
 ………………
「直ぐに解つた? こゝの家――」女房は云つた。
「えゝ――」とお蝶は点頭《うなづ》いたのである。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 お妙は、五つになる樽野の悴を伴れて附近の野原へ花摘みに出かけて行つた。樽野の悴の女房とお蝶は、次の一間しかない四畳半の茶の間で、時々何といふこともないわらひ声をあげては親し気に、飽かずに何かを語り合つてゐる。
(昼寝の者が眼を醒すまでの間に、二人がとり交した談話の、以下、わずかな断片)

          *

「さう/\、お蝶さんは、ツーちやんを知つてゐる筈ね……」
「学生さんの時分に夏、好くいらつしやいましたわね。」
「あら、今だつてまあだ、あの人……まあ学生――かしら。二三ヶ月前に、とう/\自家《うち》を追ひ出されてしまつて……」
「まあ!」
「うち[#「うち」に傍点]と一緒にアメリカへ行く相談をしてゐるのよ……」
「アメリカですつて!」
「それもうち[#「うち」に傍点]が先きに立つて、煽てるやうなことまで云ふのよ、あの寂しがりやさん!」
「どうして、また、若旦那は……!」
「毎晩、毎晩、毎晩! そんな話!」
「ですからさあ、どうして!」
「…………」
「で、小さい奥さまは!」
「あたしもよ、一緒に行くつもりなのよ、お母さんは好いつて云つてゐるらしい、ヲダハラの……」
「何時……」
「それがさあ、お蝶さん――うち[#「うち」に傍点]の云ふことはさつぱり解らないのよ。今日の云ふことゝ明日の云ふことゝ恰で違ふんですもの……馬鹿見たい。」
「……」お蝶は点頭いた。
「ふざけてゐるのかと思ふと、案外の真面目で――涙もろかつたり――」
「やつぱり、その御勉強にでせうか……」
「ツーちやんは、料理の名人なんだつて、自称。アメリカへ行つてコツクを覚えるんだつてさ。」
「まあ。――それで――」
「うち[#「うち」に傍点]は……」
 母から先きに支度するだけの分を貰つた旅費が、支度は何一つ取りかゝらぬうちにもうなくなりかけてゐるので、何かの口実を考へてゐるらしい――などと附け加へた。――「お調子に乗つてあの人は、ツーちやんのことまで引きうけてしまつて、内心大分弱つてゐるらしい……だけど、あの人、ツーちやんには、妙に同情してゐるらしいのよ、珍らしいことだが――」

          *

「お蝶さん、これ飲まない……」
「西洋のものなんて、とても戴けさうもありませんわ、――それこそ大変!」
「ぢやビールにしようか。あたしこの頃とてもお酒が強くなつたわよ。――カレラと一緒に毎晩飲むわよ。ところがカレラの方が弱いのさ、昼間は始終《しよつちう》あの通りなんぢやないの。」
「まあ、小さい奥さん……」
「費つたつて云つたつて、馬鹿/\しい――カグラザカとかへ通つて……」
「御苦労ですわね――まあ、お静かに。もうお眼醒めになるんぢやないでせうか?」
「それが可笑しいのよ、お蝶さん――。夜になると苦し紛れにうち[#「うち」に傍点]の人は大きな法螺を吹くもので、そして毎晩違ふことばかし云つてゐるもので、昼間は、工合が悪くつて――眠れないと薬をのんでまで、あゝして……」
「大変なこと……」
「もつと妙なことには、この頃ではうち[#「うち」に傍点]の人は、わざとお酒に酔つた振なんかして――狸寝入りなんてすることもあるらしいのよ。」

          *

「どこか、この先の方にお花見の場所でもあるんですか、小さい奥さん……」
「随分乗つてゐるでせう、仮装の人達なんて!」
「御存じない?」
「あたしも誰かに聞いて見ようと思つてゐたところなの。」
「でも、もう大概桜は散つた頃ぢやないでせうか。」
「八重桜はまだあるんぢやないの?」
「さうですかね。」
「ともかく毎日/\、大変な人出よ。」



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新小説 第三十一巻第七号」春陽堂
   1926(大正15)年7月1日発行
初出:「新小説 第三十一巻第七号」春陽堂
   1926(大正15)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書
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