――何時でも彼は、作の終りに何年何月といふ脱稿した月の記を附して置くのだが、この校正の時も終りの「十三年十二月」と、いふところまで、間違ひなく読んだのである。だから云ふまでもなく、「某誌」に出てゐる結末には、その誌はついてゐなかつた。
 大概彼は、雑誌に載つてから自分の文章を少くとも一度は読み返したのが常だつたが、今度だけは、それが載つてゐる雑誌が来てから十日以上も経つたが、その機会を逸してゐたのだ。おそらく彼が、二三日前の晩偶々途上で、先輩小説家のC氏に出遇はなかつたら、何時になつてそれを手にしたか解らなかつた。C氏は、彼に、
「君の、『或る日の運動』といふ小説を読んだよ。」と、告げたのである。それだけでも彼は、意外に思ひ、そして心から恐縮した。――C氏は、続けて云つた。
「あれは君、仲々面白い小説だよ。勿論君のものゝうちでは佳作に属すべきものだよ。これからも、あゝいふ方面のものも大いに書き給へよ。」
「さうですか!」と、彼は嬉しく答へた。
「あれは、旧作ぢやないの?」
「旧作ぢやないんです。」
「さうだらうね。」
「旧作ぢやないんですが、あれは七八年前の記憶なので、だが追憶風にはしなかつたんですが、……それだもので……」と、彼は一寸口ごもつて「どうも香が抜けてゐるやうな気がしてゐたんです。」……書き直さう、とも前に一寸思ひもしたが実際には彼は、そんな根気はなかつたのだが、偶然? でC氏に讚められたので「……それに、もう一辺丁寧に書き直さなければ、発表し憎い気持だつたんです。」などゝ、勿体振つて、意味あり気に吹聴をしたのだ。そして加けに、あれは初め何々からの依頼で書き、その後斯んな事情で、不満なものにも係らず訂正もしないで、あそこに出したんだ――などゝ、くどくどゝ余外な話を附け加へたりした。
「そんな必要はないさ。」と、C氏は笑つた。
「書き直す気持があつたら、あれは未だ相当に書ける材料だから、新しく書き給へよ。君は、此頃最近の実生活を主に材料にするらしいが、あゝいふものだつて少しも熱が醒めてゐないから、遠慮なく書き給へよ。」
 彼は、C氏の言葉に心で感謝したのだ。
 縁側の日向に寝転んで、彼は、ブロチンとかといふ熱湯に溶かした咳の薬をすゝりながら、C氏の言葉に励みを得て『或る日の運動』を読み返したのである。――この頃、彼は、最近の実生活を源にして、彼としては相当
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