もたゞ、醜い妥協に過ぎなかつた。
 ところで、「一、二、三!」で断ち切られた彼の『或る日の運動』には、次のやうな文章が続いてゐるのだ。
 ――そんな懸声をして私は、本の説明通りに腕を振つたり、脚をバタバタと動かせたりした。
 平泳ぎ、背泳ぎ、両抜手、片抜手、競泳、立ち泳ぎ――等を悉く試みた。そして、
「こんなものは他合もない。」と、呟いだ。それから、もう相当の達人になつた心になつて、本は投げ飛して、部屋の中を縦横に逼ひ回つた。――椅子の上に立ちあがつて、両手を「天」に差し延べ「水中」めがけて飛び込んだ。苦しさうな息使ひをして、眼を閉ぢて、猛烈な競泳を試みた。疲れると、背泳ぎをして悠々と四肢を伸して水の上に浮んだ。ゆるやかな平泳ぎで、沖を見渡したり、渚を顧みたりしながら、人魚のやうに呑気に游泳した。――そして、ふつと馬鹿/\しさに気づくと、にわかに立ちあがつて、
「なアに、運動だよ、あまり気がムシヤクシヤしたから、気晴しに朝の運動を試みたまでのことさ。」などと、自分に弁解しながら、胸を拡げて大きな深呼吸をした。
 その時、照子とFが、あわたゞしく帰つて来たが私の姿を見ると、わざとらしく驚いて「何をしてゐるの、裸になんかなつて!」と照子が、堪らなさうに笑つた。Fは、苦い顔をして横を向いてゐた。私は、今自分に言ひわけしたことゝ、同じ返答をしながら、惶てゝ着物を着たのである。
「運動をする位ひならば、妾達と一処に海岸へ行けば好いのに。」と、Fは不平さうに呟いだ。
「今日は随分大勢泳いでゐたわよ。」
「僕は、仕事が終らないうちは、出かけられないと云つてゐるぢやないか、大事の仕事が眼の前に控えてゐるんだ。」
 私は、さう云ひ棄てゝ、静かに自分の部屋へ入つて行つた。――(四五日も続けて、今日位ひ熱心に練習すれば屹度大丈夫だ。鉄瓶の沸るのを見て、蒸汽機関を発明した人だつてあるぢやないか。)――十三年十二月――。
 彼は、附け足してさう読み終つたが、一刻前の憤慨や焦慮が滑稽に思はるゝばかりだつた。
「久し振りに散歩がてら、Bを訪れて見よう。今日のやうに好く晴れた冬の景色は、一番好もしいに違ひない。」
 彼は、そんなことを思ひながら、スポーツ刈りの頭を振つて、勢ひ好く立ちあがつた。[#地から1字上げ](十四年二月)



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)
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