、彼は眼を瞑つて云つた。
「でもね、あたし達は好いけれど英一が可愛想だから、残るものなら何とかしてやらうツて、うちのお父さんが云つてゐますよ。あなたから、好く頼んだらどう? お坊ちやんがつてゐられる事でもないし、場合だつて……」
「そのうち頼まうよ。」
彼は、横を向いて力なく呟いだ。
「東京へ来てツから、すつかり意久地がなくなつたのね。」
周子は、さう云つて快《こころよ》げに笑つた。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
「父の百ヶ日前後」の頃には、愚かなりにも彼の心に病的な緊張があつた。父の幻を生々と、心に蘇らすことが出来た。今では、その幻も「お伽噺」となつて哀れな余影を、彼の眠がりな頭の隅に残してゐるばかりだつた。
たゞ愚図/\と、いぢけた日ばかり送つてゐても滅入るばかりだ、と思つて、彼は四五日前から、何か架空的な小説でも書かうと思ひ立つたのだが、終日机の前に坐つてゐても、たゞ物憂く情けなくなるばかりで、結局寝床にもぐつて暮してしまつた。
「神経衰弱といふ病気なのかな!」
そんな風にも思つて見たが、酒を飲むと相当元気になるところを思ふと、これも空々しく、彼は苦笑を洩すより他はなかつた。何の飾りもない二階の八畳の書斎には、隅の方に小机が一脚無造作に置いてあるばかりだつた。――彼は、寝転んで恨めしさうに、その机を眺めたりした。隙間だらけの唐紙や破れ放題になつてゐる障子の穴などからは、寒い風が遠慮なく吹き込んだ。
「どうも、困つたな!」
彼は、起き上つて机の置場所を様々に迷つたのであるが、どうしても落つけず、思はず焦れツたく舌を鳴した。――彼は、小机を抱えた儘、座敷の真ン中に突ツ立つてしまひ、腕を延し、胸を拡げて、苦々し気に天井を窺めたのだ。
此処で、と決めて坐つて見ると、一方の机の脚と畳との間には微かな隙が生じて、肘を突くとガクリとするのであつた。
「これ位ひのことで病はされるなんて、情けないことだ。」
彼は、そんなに思つて、悲しみさへ覚えた。他人の前では、何事につけても、平気を装ふたり、快活を衒つたり、酔つて葉山氏の口調を真似て、衣服や居住を意としないといふやうなことを壮語したこともあつたが、ふつと醒めて明るい日常に出遇ふと、己れの放つた矢で己れの胸を刺す思ひがするばかりだつた。破れ放題になつてゐる障子を見ても鬱陶しかつた。彼の家を訪れる者は、
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