を思つた時、彼は、酷い眩暈を感じて、危ふく倒れるところだつた。と同時に、突然魔物に襲はれる怖ろしさに怯えて、夢中で、動物園裏の家まで駈け込んだ、袂に投げ込んだ眼鏡が、石のやうに痛く手首に打つかるのも関はなかつた。
「芝居を見に行つたの、あんなものを持つて! 昨夜は?」と、周子は笑つて訊ねた。いくら酔つてゐたとはいへ、あんな馬鹿/\しい動作をしたり、感傷に走つたり、他合もない恐怖に襲はれたり、加けに駆け出したりしたことを思ふと、誰にも見られなかつたから好さゝうなものなのに、彼は、恥しさのあまり身の縮む思ひがした。
「行かうかと思つて、出掛けたんだが途中で厭になつて友達のところへ行つたんだ。」
「何処?」
「何処だつて好いぢやないか。」
「あなたは、何でも遠回しに思はせ振りな云ひ方をするのが好きね、遊びにでも何でも行つたら好いでせう、一端怒つて出掛けた位ひなら――」
「今日は、俺を怒らせないでくれ、頼むから。怒ることを考へると、面倒臭くつて仕様がないから。」などと彼は、有耶無耶なことを呟いで、優し気な声で哀願した。
「怒つて出かけたつて、ちつとも怖くはないわよ、直ぐに帰つてくるから。」
彼は、ムツとしたが、まつたく今云つた通り、何の変化もない怒りの道程を方程式に依つて繰り反すことの煩しさを思ふと、堪へることの方が遥に楽な気がした。こんなことは珍らしかつた。
「俺が、阿母や清親の奴と、あんな風になつて此方へ来たものゝ、俺は決してお前を甘えさせはしないよ。第一、お前なんぞを味方だとも何とも思つてゐやアしない。」
「あの位ひ苦しい思ひをすれば、沢山だ。」
周子は、もう聞き飽きたといふ風に白々しく呟いだ。
「第一俺は、貴様の家へなどは決して行かないよ、交際しないんだ。」
危いな! と、彼は気附いたので、続かうとする言葉を呑み込んだ。
「えゝ、いゝわ、あたしだつてその方が反つて気が楽ですわ。」
珍らしく逆はないで周子は、物解りの好さを見せつけるやうに点頭いた。一寸、取り済して眼を伏せた鼻の低い女の横顔を眺めると彼は、軽い反感が起つて、何かもう少し憎態な言葉でも吐きたかつたが、何よりもこの晩は、波瀾なく酔ふことを欲してゐたのだ。――殊に目立つて、彼のこの頃の癖で、如何にも潔癖らしく口先きだけは云ふが、心はいつも極めて弱々しかつた。胸の底は、酒にでも酔はない限り、いつまでも微
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