気がすると、軽い好奇心を感じたりした。
「藪医者とは何だ、失敬な。」と、彼は一刻前と同じやうに威張つた。「俺だつてそれ位ひの文句は知つてゐるんだ、即ち同じ裸虫と雖も……」
「もう止して下さいな、折角子供が寝たところなんだから……」と、周子は慰《なだ》めるやうに云つた。――彼は、無気になつて威張つたわけではなかつた。周子を、ごまかしたのだ。彼は、食膳の下のオペラ・グラスを、そんなことを喋舌つてゐる間に、そつと取つて懐中に忍ばせた。よかつた、と思つた。――十年も前にFに貰つた遠眼鏡である。大火の時に運び出された荷物の間に、彼は中学の時に使つた手文庫を見つけ出したので、何気なく開けて見たら隅の方に、昔彼の父が幼少の彼に送つた手紙の束と一処に、入つてゐたのだ。原稿などを入れるに、鍵がついてゐるから都合が好いと思つて彼は、出京する時の荷物の中に箱を収めて来た。
芝居気のある彼は、そんな眼鏡を、この頃漫然と外出する時は、そつと内ふところに隠して出かける習慣をつくつた。そんな微かな秘密が、稚戯を喜ぶ彼の心に、仄かな明るさを宿した。
――前の晩彼は、泥酔して帰つて来た。友達が載せて呉れたタクシーの中で、彼の軽い体は、毯のやうにはづんで、座席から床に何度も振り落された。どうして、そんな処で降されたのか、おそらく彼が間違へて止めさせたのだらう、青白い瓦斯灯がぼツと煙つてゐる寂とした公園に彼は、立つてゐた。彼は、わけのわからぬ歌を、ブツブツと口のうちで呟きながら歩いてゐた。酔つてゐる頭が、軽くフワフワして、彼の胸には、変に暖く、賑やかな渦が、瓦斯灯の光りのやうに淡く点つてゐた。――また、家同志の話で、周子と醜い口論をした上句、カツとして飛び出したことなどは、すつかり忘れてゐた。
暗い、夜更けの公園だつた。
「何も彼も懐しい、懐しくつて堪らない、照子、F……いや、周子だつて相当懐しいぢやないか!」
彼は、そんなことを呟いだ。「親父だつて懐しいが、死んでしまつたんぢやお話にならないね。親父の印象も一日一日と遠ざかつてゆく、面白いぢやないか、お伽噺になつてくるんだもの。この冬が過ぎると、一年の喪といふものが明けるわけかな、一年、三年、七年……そんなことは、どうだつて関はないんだが、こんなにも脆く親父の印象が遠ざかつて行くかと思ふと、一寸彼に気の毒な気がするな、この分で行くと、春にでもな
前へ
次へ
全42ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング