なるべく家族生活をも避けんとした。
 次に公衆的快楽説、即ちいわゆる功利説について述べよう。この説は根本的主義においては全く前説と同一であるが、ただ個人の快楽を以て最上の善となさず、社会公衆の快楽を以て最上の善となす点において前説と異なっている。この説の完全なる代表者はベンザムである。氏に従えば人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。而していかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留針押しの遊の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、ただ大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の価値は直覚論者のいうようにその者に価値があるのではなく、全くこれより生ずる結果に由りて定まるのである。即ち大なる快楽を生ずる行為が善行である。而して如何なる行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽と考えねばならぬから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であるといっている。またベンザムはこの快楽説に由りて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得る者であって、たとえば強度、長短、確実、不確実等の標準に由りて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能《よ》く辻褄《つじつま》の合った者であるが、ただ一つ何故に個人の最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快楽にはこれを感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。而してこの感ずる主というのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快楽説の原則よりして何故に個人の快楽よりも多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情というものがあるから己《おのれ》独り楽むよりは、人と共に楽んだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミルなどはこの点に注目している。しかしこの場合においても、この同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのである。もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何《いかん》。快楽説の立脚地よりしては、それでも自己の快楽をすてて他人の快楽を求めねばならぬということができるであろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、かえって快楽説の必然なる結果であろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じてい驍ェ、かかる事は到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う。
 これまで一通り快楽説の主なる点をのべたので、これよりその批評に移ろう。先ず快楽説の根本的仮定たる快楽は人生唯一の目的であるということを承認した処で、果して快楽説に由りて充分なる行為の規範を与うることができるであろうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽は如何なる快楽でも皆同種であって、ただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽に色々の性質的差別があって、これに由りて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。即ち快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快楽に色々性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じく経験し得る人は容易にこれを定めうると考えている。たとえば豕《ぶた》となりて満足するよりはソクラテースとなって不満足なることは誰も望む所である。而してこれらの差別は人間の品位の感 sense of dignity より来《きた》るものと考えている。しかしミルの如き考は明に快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説よりいえば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尚き者であるという事は許されない。さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であってただ数量的に異なるものとして、如何にして快楽の数量的関係を定め、これに由りて行為の価値を定めることができるであろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識に由りて弁別ができるといっているだけで、明瞭なる標準を与えてはおらぬ。独りベンザムは上にいったようにこの標準を詳論している。併し快楽の感情なる者は一人の人においても、時と場合とに由りて非常に変化し易い物である、一の快楽より他の快楽が強度において勝るかは頗《すこぶ》る明瞭でない。更に如何ほどの強度が如何ほどの継続に相当するかを定むるのは極めて困難である。一人の人においてすらかく快楽の尺度を定むるのは困難であって見れば公衆的快楽説のように他人の快楽をも計算して快楽の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、富より名誉が大切で、
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