持するかの疑が起るであろう。心理学では此の如き統一作用の本を脳という物質に帰している。しかしかつていったように、意識外に独立の物体を仮定するのは意識現象の不変的結合より推論したので、これよりも意識内容の直接の結合という統一作用が根本的事実である。この統一力は或他の実在よりして出で来《きた》るのではなく、実在はかえってこの作用に由りて成立するのである。人は皆宇宙に一定不変の理なる者あって、万物はこれに由りて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねてまた意識内面の統一力である、理は物や心に由って所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立自存であって、時間、空間、人に由って異なることなく、顕滅用不用に由りて変ぜざる者である。
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普通に理といえば、我々の主観的意識上の観念聯合を支配する作用と考えられている。しかし斯《かく》の如き作用は理の活動の足跡であって、理|其者《そのもの》ではない。理其者は創作的であって、我々はこれになりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ることのできないものである。
普通の意義において物が存在するということは、或場処或時において或形において存在するのである。しかしここにいう理の存在というのはこれと類を異にしている。此の如く一処に束縛せらるるものならば統一の働をなすことはできない、かくの如き者は活きた真の理でない。
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個人の意識が右にいったように昨日の意識と今日の意識と直《ただち》に統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見做《みな》すことができる。この考を推し進めて行く時は、啻《ただ》に一個人の範囲内ばかりではなく、他人との意識もまた同一の理由に由って連結して一と見做すことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根柢には普遍的なる者がある。我々はこれに由りて互に相理会し相交通することができる。啻にいわゆる普遍的理性が一般人心の根柢に通ずるばかりでなく、或一社会に生れたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざる者はない、各個人の精神は皆この社会精神の一細胞にすぎないのである。
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前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日
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