看做《みな》すべきものである。
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 ヘーゲルは何でも理性的なる者は実在であって、実在は必ず理性的なる者であるといった。この語は種々の反対をうけたにも拘らず、見方に由っては動かすべからざる真理である。宇宙の現象はいかに些細なる者であっても、決して偶然に起り前後に全く何らの関係をもたぬものはない。必ず起るべき理由を具して起るのである。我らはこれを偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。
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 普通には何か活動の主があって、これより活動が起るものと考えている。しかし直接経験より見れば活動その者が実在である。この主たる物というは抽象的概念である。我々は統一とその内容との対立を互に独立の実在であるかのように思うから斯《かく》の如き考を生ずるのである。
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   第六章 唯 一 実 在

 実在は前にいったように意識活動である。而して意識活動とは普通の解釈に由ればその時々に現われまた忽ち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。して見ると、小にして我々の一生の経験、大にしては今日に至るまでの宇宙の発展、これらの事実は畢竟《ひっきょう》虚幻夢の如く、支離滅裂なるものであって、その間に何らの統一的基礎がないのであろうか。此《かく》の如き疑問に対しては、実在は相互の関係において成立するもので、宇宙は唯一実在の唯一活動であることを述べて置こうと思う。
 意識活動は或範囲内では統一に由って成立することは略《ほぼ》説明したと思うが、なお或範囲以外ではかかる統一のあることを信ぜぬ人が多い。たとえば昨日の意識と今日の意識とは全く独立であって、もはや一の意識とは看做《みな》されないと考えている人がある。しかし直接経験の立脚地より考えて見ると、此の如き区別は単に相対的の区別であって絶対的区別ではない。何人でも統一せる一の意識現象と考えている思惟または意志等について見ても、その過程は各《おのおの》相異なっている観念の連続にすぎない。精細にこれを区別して見ればこれらの観念は別々の意識であるとも考えることができる。しかるにこの連続せる観念が個々独立の実在ではなく、一の意識活動として見ることができるならば、昨日の意識と今日の意識とは一の意識活動として見られぬことはない、我々が幾日にも亙りて或一の問題を考え、または一の事業を計画
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