現象と脳中の刺戟との関係は、ちょうど耳には音と感ずる者が眼や手には糸の震動と感ずると同一であろう。
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我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。
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また普通には、意識の外に或定まった性質を具えた物の本体が独立に存在し、意識現象はこれに基づいて起る現象にすぎないと考えられている。しかし意識外に独立固定せる物とは如何なる者であるか。厳密に意識現象を離れては物|其者《そのもの》の性質を想像することはできぬ。単に或一定の約束の下に一定の現象を起す不知的の或者というより外にない。即ち我々の思惟の要求に由って想像したまでである。しからば思惟は何故にかかる物の存在を仮定せねばならぬか。ただ類似した意識現象がいつも結合して起るというにすぎない。我々が物といっている者の真意義はかくの如くである。純粋経験の上より見れば、意識現象の不変的結合というのが根本的事実であって、物の存在とは説明のために設けられた仮定にすぎぬ。
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いわゆる唯物論者なる者は、物の存在ということを疑のない直接自明の事実であるかのように考えて、これを以て精神現象をも説明しようとしている。しかし少しく考えて見ると、こは本末を転倒しているのである。
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それで純粋経験の上から厳密に考えて見ると、我々の意識現象の外に独立自全の事実なく、バークレーのいったように真に有即知 esse=percipi である。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
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余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と分れて精神のみ存するということに考えられるかも知れない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。またバークレーの有即知というも余の真意に適しない。直接の実在は受動的の者でない、独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。
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右の考は、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬのであるが、一
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