きる。とにかく直接経験の状態において、主客相没し、天地唯一の現実、疑わんと欲して疑う能わざる処に真理の確信があるのである。一方において意志の活動ということを考えて見るとやはり此《かく》の如き直接経験の現前即ち意識統一の成立をいうにすぎぬ。一の欲求の現前は単に表象の現前と同じく直接経験の事実である。種々の欲求の争の後一つの決断ができたのは、種々思慮の後一の判断ができたように、一の内面約統一が成立したのである。意志が外界に実現されたという時は、学問上自己の考が実験に由りて証明せられた場合のように、主客の別を打破した最も統一せる直接経験の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、外界との統一は自然に従わねばならぬというが、内界の統一であっても自由ではない、統一は凡て我々に与えられる者である、純粋経験より見れば内外などの区別も相対的である。意志の活動とは単に希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であって、かえって意志の実現が妨げられた場合である、ただ意識統一が意志活動の状態である。たとい現実が自己の真実の希望に反していても、現実に満足しこれに純一なる時は、現実が意志の実現である。これに反し、いかに完備した境遇であっても、他に種々の希望があって現実が不統一の状態であった時には、意志が妨げられているのである。意志の活動と否とは純一と不純一、即ち統一と不統一とに関するのである。
 例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。これについて種々の聯想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる。これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起る。この聯想がなお前意識の縁暈《えんうん》としてこれに附属している時は知識であるが、この聯想的意識|其者《そのもの》が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの聯想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである。何でも現実における意識体系の発展する状態を意志の作用というのである。思惟の場合でも、或問題に注意を集中してこれが解決を求むる所は意志である。これに反し茶をのみ酒をのむというようなことでも、これだけの現実ならば意志であるが、その味をため
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