統一作用その者であるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである。大なる自己の実現である(ヘーゲルのいったように、凡ての学問の目的は、精神が天地間の万物において己《おのれ》自身を知るにあるのである)。知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる、これまで非自己であった者も自己の体系の中に入ってくるようになる。我々はいつでも個人的要求を中心として考えるから、知識において所動的であるように感ぜられるのであるが、若しこの意識的中心を変じてこれをいわゆる理性的要求に置くならば、我々は知識においても能動的となるのである。スピノーザのいったように知は力である。我々は常に過去の運動表象の喚起に由りて自由に身体を動かし得ると信じている。しかし我々の身体も物体である、この点より見ては他の物体と変りはない。視覚にて外物の変化を知るのも、筋覚にて自己の身体の運動を感ずるのも同一である、外界といえば両者共に外界である。しかるに何故に他物とは違って、自己の身体だけは自己が自由に支配することができると考え得るのであろうか。我々は普通に運動表象をば、一方において我々の心像であると共に一方において外界の運動を起す原因となると考えているが、純粋経アの立脚地より見れば、運動表象に由りて身体の運動を起すというも、或予期的運動表象に直に運動感覚を伴うというにすぎない、この点においては凡て予期せられた外界の変化が実現せられるのと同一である。実際、原始的意識の状態では自己の身体の運動と外物の運動とは同一であったであろうと思う、ただ経験の進むにつれてこの二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の変化と見られ、予期的表象にすぐに従う者が自己の運動と考えられるようになったのである。しかし固《もと》よりこの区別は絶対的でないのであるから、自己の運動であっても少しく複雑なる者は予期的表象に直に従うことはできぬ、この場合においては意志の作用は著しく知識の作用に近づいてくるのである。要するに、外界の変化といっている者も、その実は我々の意識界即ち純粋経験内の変化であり、また約束の有無ということも程度の差であるとすれば、知識的実現と意志的実現とは畢竟《ひっきょう》同一性質の者となってくる。或は意志的運動においては予期的表象は単にこれに先だつのでなく、其者《そのもの》が直に運動の原因となるのであるが、
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