物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。物理学者のいうような、すべて我々の個人の性を除去したる純物質という如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。具体的事実に近づけば近づくほど個人的となる。最も具体的なる事実は最も個人的なる者である。この故に原始的説明は神話においてのように凡《すべ》て擬人的であったが、純知識の進むに従い益々一般的となり抽象的となり遂に純物質という如き概念を生ずるに至ったのである。しかしかくの如き説明は極めて外面的で浅薄なると共に、かかる説明の背後にも我々の主観的統一なる者の潜んでいることを忘れてはならぬ。最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰《ひやく》はこの自己にあるのである。物体に由りて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒《てんとう》した者といわねばならぬ。
 ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉にすぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総《す》べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粋経験に加えたる独断にすぎない)。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずるのである。ロイスも「自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されている」といっている(Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV)。それで自然界の統一というのも畢竟《ひっきょう》意識統一の一種にすぎないということになる。元来精神と自然と二種の実在があるのではない、この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。直接経験の事実においては主客の対立なく、精神物体の区別なく、物即心、心即物、ただ一箇の現実あるのみである。ただかくの如き実在の体系の衝突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。換言すれば知覚の連続においては主客の別はない、ただこの対立は反省に由って起ってくるのである。実在体系の衝
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