はなくして、一社会の各員がその社会の安寧秩序を維持する力に対する共同的関係である」といっている。凡《すべ》ての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ、即ち父子の関係がなければならぬ。しかし単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。また神は万物の目的であって即ちまた人間の目的でなければならぬ、人は各《おのおの》神において己《おの》が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以《ゆえん》である。基督《キリスト》が「その生命を得る者はこれを失い我が為に生命を失う者はこれを得べし」といわれたのが宗教の最も醇《じゅん》なる者である。真の宗教における神人の関係は必ず斯《かく》の如き者でなければならぬ。我々が神に祈りまたは感謝するというも、自己の存在の為にするのではない、己が本分の家郷たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。また神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない、これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔《けいけん》の念も出でくるのである。単に諦めるといい、任キという如きは尚自己の臭気を脱して居らぬ、未だ真の敬虔の念とはいわれない。神において真の自己を見出すなどいう語は或は自己に重きを置くように思われるかも知らぬが、これかえって真に己をすてて神を崇《たっと》ぶ所以である。
 神人その性を同じうし、人は神においてその本に帰すというのは凡ての宗教の根本的思想であって、この思想に基づくものにして始めて真の宗教と称することができると思う。しかし斯の如き一思想の上においてもまた神人の関係を種々に考えることができる。神は宇宙の外に超越せる者であって、外より世界を支配し人に対しても外から働くように考えることもでき、または神は内在的であって、人は神の一部であり神は内より人に働くと考えることもできる。前者はいわゆる有神論 theism の考であって、後者はいわゆる汎神論 pantheism の考である。後者の如く考うる時は合理的
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