すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが「すでにわれ生けるにあらず基督《キリスト》我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡《すべ》てを十字架に釘付け了《おわ》りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。基督が「十字架を取りて我に従はざる者は我に協《かな》はざる者なり」といったように、一点なお自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいわれないのである。
 現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒《いたず》らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかの単《ひとえ》に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらは凡て利己心の変形にすぎないのである。しかのみならず、余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已《や》まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的|其者《そのもの》であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
 主意説の心理学者のいうように、意志は精神の根本的作用であって、凡ての精神現象が意志の形をなしているとすれば、我々の精神は欲求の体系であって、この体系の中心となる最も有力なる欲求が我々の自己であるということとなる。而《しか》してこの中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持発展することが我々の精神的生命である。この統一の進行する間は我々は生きているのであるが、もしこの統一が破れたときには、たとい肉体において生きているにもせよ、精神においては死せるも同然となるのである。然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであろうか。即ち、個人的生命はどこまでも維持発展することのできるものであろうか。世界は個人の為に造られたる者ではなく、また個人的欲求が人生最大の欲求で
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