があって、これより一定の方向において種々の聯想《れんそう》を起し、選択の後その一に決定する場合もある。しかしこの場合でも、いよいよこれを決定する時には、先ず主客両表象を含む全き表象が現われて来なければならぬ。つまりこの表象が始から含蓄的に働いていたのが、現実となる所において判断を得るのである。かく判断の本には純粋経験がなければならぬということは、啻《ただ》に事実に対する判断の場合のみではなく、純理的判断というような者においても同様である。たとえば幾何学の公理の如き者でも皆一種の直覚に基づいている。たとい抽象的概念であっても、二つの者を比較し判断するにはその本において統一的或者の経験がなければならぬ。いわゆる思惟の必然性というのはこれより出でくるのである。故に若し前にいったように知覚の如き者のみでなく、関係の意識をも経験と名づくることができるならば、純理的判断の本にも純粋経験の事実があるということができるのである。また推論の結果として生ずる判断について見ても、ロックが論証的知識においても一歩一歩に直覚的証明がなければならぬといったように(Locke, An Essay concerning Human Understanding, Bk. IV, Chap. II, 7)連鎖となる各判断の本にはいつも純粋経験の事実がなければならぬ。種々の方面の判断を綜合して断案を下す場合においても、たとい全体を統一する事実的直覚はないにしても、凡《すべ》ての関係を綜合統一する論理的直覚が働いている(いわゆる思想の三法則の如きも一種の内面的直覚である)。たとえば種々の観察より推して地球が動いていなければならぬというのも、つまり一種の直覚に基づける論理法に由りて判断するのである。
 従来伝統的に思惟と純粋経験とは全く類を異にせる精神作用であると考えられている。しかし今凡ての独断を棄てて直接に考え、ジェームスが「純粋経験の世界」と題せる小論文にいったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う。知覚と思惟の要素たる心像とは、外より見れば、一は外物より来る末端神経の刺戟に基づき、一は脳の皮質の刺戟に基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像とを混同することはない。しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に
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