己一人の快楽より多人数の快楽が尚いなどと、伝説的に快楽の価値が定まっているようであるが、かかる標準は種々なる方面の観察よりできたもので、決して単純なる快楽の大小より定まったものとは思われない。
 右は快楽説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快楽説に由りて我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めてこの説の根本的原理について考究して見よう。凡て人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとはこの説の根本的仮定であって、またすべての人のいう所であるが、少しく考えて見ると、その決して真理でないことが明である。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的または理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。たとえば己の欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行せねばならぬというような考は誰の胸裡《きょうり》にも多少は潜みおるのである。時あってこれらの動機が非常なる力を現わし来り、人をして思わず悲惨なる犠牲的行為を敢《あえ》てせしむることも少くない。快楽論者のいうように人間が全然自己の快楽を求めているというのは頗《すこぶ》る穿《うが》ち得たる真理のようであるが、かえって事実に遠ざかったものである。勿論快楽論者もこれらの事実を認めないのではないが、人間がこれらの欲望を有しこれが為に犠牲的行為を敢てするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快楽を求むるにすぎないと考えているのである。しかしいかなる人もまたいかなる場合でも欲求の満足を求めているということは事実であるが、欲求の満足を求むる者が即ち快楽を求むる者であるとはいわれない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行し得た時には、必ず満足の感情を伴うのである。而してこの感情は一種の快楽には相違ないが、これが為にこの快感が始より行為の目的であったとはいわれまい。かくの如き満足の快感なる者が起るには、先ず我々に自然の欲求という者がなければならぬ。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生ずるのである。然るにこの快感あるが為に、欲求は凡て快楽を目的としているというのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に他愛の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。しかしこれが為
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