活動説という。今先ず合理説より話そう。
合理的若しくは主知的倫理学 dianoetic ethics というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真偽ということとを同一視している。物の真相が即ち善である、物の真相を知れば自ら何を為さねばならぬかが明《あきらか》となる、我々の義務は幾何学的真理の如く演繹《えんえき》しうる者であると考えている。それで我々は何故に善を為さねばならぬかといえば、真理なるが故であるというのである。我々人間は理性を具しておって、知識において理に従わねばならぬように、実行においても理に従わねばならぬのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上色々の意味があるが、ここに理というのは普通の意味における抽象的概念の関係をいうのである)。この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志に由りて左右し得る随意的の者であるというに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変なることを主張し、また一方では、善悪の本を知覚または感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬようになるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたのである。この説は往々前にいった直覚説と混同せらるることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分って考えた方がよいと思う。
余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考える。氏の考に依れば、凡《すべ》て人事界における物の関係は数理の如く明確なる者で、これに由りて自ら物の適当不適当を知ることができるという。たとえば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々はこれに服従せねばならぬとか、他人が己に施《ほどこ》して不正なる事は自分が他人に為しても不正であるというような訳である。氏はまた何故に人間は善を為さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからずといっている。時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいって、全く「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同している。
合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、これを以て道徳の全豹《ぜんぴょう》を説き得たるものとなす
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