と同一である。ただその統一の目的が同じくなく、従って統一の法則が異なっているから、各《おのおの》相異なった意識の作用と考えられているのである。しかし今一層精細に何点において異なり何点において同じきかを考究して見よう。先ず想像と意志とを比較して見ると、想像の目的は自然の模擬であって、意志の目的は自身の運動である。従って想像においては自然の真状態に合うように観念を統一し、意志では自己の欲望に合うように統一するのである。しかし精しく考えて見ると、意志の運動の前には必ず先ず一度その運動を想像せねばならず、また自然を想像するには自分が先ずその物になって考えて見なければならぬ。ただ想像というものはどうしても外物を想像するので、自己が全くこれと一致することができず、従って自己の現実でないというような感がする。即ち或事を想像するというのとこれを実行するというのとはどうしても異なるように思われるのである。しかし更に一歩を進めて考えて見ると、こは程度の差であって性質の差ではない。想像も美術家の想像において見るが如く入神の域に達すれば、全く自己をその中に没し自己と物と全然一致して、物の活動が直《ただち》に自己の意志活動と感ぜらるるようにもなるのである。次に思惟と意志とを比較して見ると、思惟の目的は真理にあるので、その観念結合を支配する法則は論理の法則である。我々は真理とする所の者を必ず意志するとは限らない、また意志する所の者が必ず真理であるとは考えておらぬ。しかのみならず、思惟の統一は単に抽象的概念の統一であるが、意志と想像とは具体的観念の統一である。これらの点において思惟と意志とは一見明に区別があって、誰もこれを混ずる者はないのであるがまた能く考えて見ると、この区別も左程に明確にして動かすべからざるものではない。意志の背後にはいつでも相当の理由が潜んでいる。その理由は完全ならざるにせよ、とにかく意志は或真理の上に働くものである、即ち思惟に由って成立するのである。これに反し、王陽明が知行同一を主張したように真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。自分はかく思惟す驍ェ、かくは欲せぬというのは未だ真に知らないのである。斯《か》く考えて見ると、思惟、想像、意志の三つの統覚はその根本においては同一の統一作用である。そのうち思惟および想像は物および自己の凡てに関する観念に対する統一作用であ
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