B私は個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対するというが、生死ということが個物の個物たる所以でなければならない。個物は生死するものでなければならない、然らざれば個物ではない。そして生物的生命といえども、個物の生死ということがなければならない。死ということは絶対の無に入ることであり、生れるということは絶対の無から出て来ることである。それは唯絶対矛盾的自己同一の現在の自己限定としてのみいい得るのである。
 生物的生命といえども、形成的でなければならない。そこには既に行為的直観が含まれていなければならない。行為的直観的なる形成作用というのは、個物が何処までも超越的なるもの即ち絶対に対し、絶対矛盾的自己同一を媒介とするということである。真の当為はかかる個物の立場から起るものでなければならない。然らざれば、それは主観的たるを免れない。具体的当為は、我々が自己自身を否定するものによって生きるという個人的存在としての自己矛盾から起るものでなければならない。欲求的なる身体的存在としても、我々は既にかかる自己矛盾的存在であるのである。真の具体的当為とは、何処までも我々を越えたものが行為的直観的に外から我々に求めるものでなければならない、ポイエシスを通して現れ来るものでなければならない(真の実践はいつも行為的直観を媒介するものでなければならない)。身体的なるが故に、我々は自己存在の根柢において自己矛盾である。而して歴史的身体的なるが故に、我々は何処までも当為的であるのである。単に論理的矛盾から具体的当為は出ない。真の絶対として我々に臨むものは、論理的に考えられた絶対ではなく、現実に我々の生死を問うものでなければならない。

 絶対矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成し行く世界でなければならない。かかる世界は何処までも作られたものから作るものへと、動き行く行為的直観的現在を中心として、無限に自己自身を映すと考えられる意識面を含む世界でなければならない。無限なる過去と未来とが自己矛盾的に現在において合一するという時、そこに時が消される立場がなければならない。矛盾的自己同一的現在の自己形成は意識を契機とするものでなければならない。形成作用というのは機械的でもなく単なる合目的的でもない、意識的でなければならない。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、現在が現在自身を越えると考えられ、自己自身を越えたものを映すとして、意識は志向的と考えられる。矛盾的自己同一的現在を中心として、世界は何処までも符号的に表現せられると考えられるのである。しかし世界が斯《か》く何処までも表現的に、換言すれば抽象概念的に考えられて行くというのも、それは行為的直観の現実からであり、世界はいつも絶対矛盾的自己同一として、かかる自己否定を契機として行くのである。我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである、個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。この故に絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、何処までも論理的ということができる。
 絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成において、時が消されると考えられる意識面においては、世界は何処までも動揺的である。そこには行為的直観が失われるとすら考えられる。我々は自由に考え自由に行い得ると考えられる。我々は絶対矛盾的自己同一として我々に臨むものから離れる。抽象的自由の世界があるのである。しかしそれは世界が亡び行く方向であり、我々が我々自身を失い行く方向たるに過ぎない。我々の意識というのは絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成の契機として現れるのであり、意識的に過去と未来とが自己矛盾的に現在に合一するということは、逆に世界が何処までも矛盾的自己同一的に自己自身を形成するということでなければならない。我々は意識的に自由であればあるほど、逆に行為的直観的に絶対矛盾的自己同一に対するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界の個物として、我々は何処までも自己自身の生死を問うものに対するのである。そこに我々の意識作用は何処までも当為的でなければならない所以《ゆえん》のものがあるのである。
 幾度かいうのであるが、私の行為的直観とは本能的とか芸術的とかいうことではない。無論、本能とはその未発展の状態といい得るであろう。芸術とはその一方向への極限とも考えられるであろう。しかし行為的直観というのは、我々が意識的に実在を把握する、最も根本的な、最も具体的な仕方でなければならない。概念というのは、唯抽象によって成立するのではない。物を概念的に把握するということは、行為的直観的に把握することでなければならない。我々は行為的直観によって、物を概念的に把握するのである(概念とはベグリッフである)。行為的直観的に物を把握するということは、作ることによって見ることである、ポイエシスによって物を知ることである。私は従来、我々が物を作る、物は我々によって作られたものでありながら、それ自身によって独立せるものとして逆に我々を限定する、我々は物の世界から生れるといったが、作られたものから作るものへとして作用が自己矛盾的に対象に含まれる時我々は行為的直観的に実在を把握するのである。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界においてのみ、かかる概念的知識が可能なのである。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時右にいった如く世界は意識的である。かかる世界の形成的要素として、我々は行為的直観的に即ちポイエシス的に実在を把握する。それが我々の概念的知識の本質であるのである。我々の今日概念的知識というものは、その根柢において物を作ることによって行為的直観的に把握し来ったものである。いわゆる実践によって獲得し来ったものである。一般には、眼が実用を離れて知識的と考えられる。しかしアリストテレスが我々は手を有《も》つ故に理性的であるといった如く私は我々の概念的知識は手から得られたのであると思う。手は運動の機関であり把握の機関であると共に、製作の道具であるのである(Noire, Das Werkzeug【#「Noire」の「e」はアキュートアクセント付き】[『道具』])。
 動物より人間へという時我々は社会的となる。上にいった如く、社会においては既に個人というものがあるのである。社会というものは、ポイエシスを中心として成立するのである。我々の概念的知識というのは、固《もと》社会的制作から発展し来ったものでなければならない。物の概念とは、固社会的制作によって把握せられたものでなければならない。社会的制作的に把握せられる物の生産様式が概念的知識の起源となるのであろう。言語というものなくして思惟というものなく、言語学者は言語は固社会的共同作用に伴うという。而して概念的知識は生産様式的に生産的なればなるほど、真なのである。今日の科学といえども、かかる立場から発展し、また何処までもかかる立場を離れないものでなければならない。無論それは何処までもかかる立場を越えたものと考えられるであろう、かかる立場を否定するとすら考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処《ここ》から出て此処へ還《かえ》り来る性質を有ったものでなければならない、いわば技術的意義を有ったものでなければならない。しかのみならず、純知識的といっても、実験ということは行為的直観的に実在を把握することでなければならない。無論科学は単なる実験ではない。しかし科学においては実験と理論とは不可分離的でなければならない。而《しか》して理論というものが、如何に純理論的といっても、私のいわゆる制作によって行為的直観的に物の生産様式を把握するということから発展し来ったものでなければならない。何処までもかかる立場から歴史的に発展し来ったものでなければならない。行為的直観の地盤を離れて科学はない。ミンコフスキーは時間空間の相対性を講ずるに当って、この見解は物理的実験の地盤から生れた、そこに強味があるといった如く。
 過去と未来との矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時我々は何処までも絶対矛盾的自己同一として我々の生死を問うものに対する、即ち唯一なる世界に対するのである。我々が個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。而して斯《か》くなればなるほど、逆に我々は自己矛盾的に世界と一つになるということができる。かかる立場において、世界が意識面的であり、我々の自己が意識作用的であると考えられる時、世界が一つの論理的一般者と考えられる。かかる個物的自己として行為的直観的に物を把握するのが、我々の判断作用というものである。現在において、我々が何処までも個人的自己として、個人的自己の尖端《せんたん》において行為的直観的に物を把握する所に、客観的実在の判断的知識が成立するのである。現在においての個人的自己とは何を意味するか。過去と未来とが何処までも矛盾的に合一する矛盾的自己同一的現在の世界においての個物としてということを意味するのである。いわば絶対現在としての歴史的空間の個物ということである。かかる個物的自己として行為的直観的に即ちポイエシス的に物を把握するということは、物を絶対現在としての歴史的空間において見ることであり、過去未来を包んだ現在においての物の法則を明《あきらか》にすることである、私のいわゆる世界の生産様式を把握することである。そこに客観的認識の世界があるのである。
 行為的直観的自己が何処までも個物的であり、現在が何処までも絶対現在的であればあるほど、認識が客観的ということができる。例えば、物理学者が実験をするというのも、物理学者が物理学的世界の個人的自己として行為的直観的に物を把握することでなければならない。物理学的世界といっても、この歴史的世界の外にあるのではなく、歴史的世界の一面たるに過ぎない。矛盾的自己同一的現在が形を有《も》たない世界の生産様式が非創造的である、同じ生産様式が繰返される。斯く見られた時、歴史的世界は物理学的世界であるのである、而してまた歴史的世界は一面に何処までもかかる世界でなければならない。我々も身体的には物質的としてかかる世界の中にいるのであり、我々は社会的制作的に歴史的生命の始から既に物理学的に世界を見ているのである。今日の物理学というも、かかる立場から発展し来ったものでなければならない。我々が個人的自己として世界に対するということは、世界が唯一的に我々に臨むことである。世界が唯一的に我々に臨む所に、我々の個人的自己があるのである。今日の物理学的世界が唯一的に我々に臨む所に、今日の物理学的個人的自己というものがあり、行為的直観的に今日の物理学的知識が把握せられるのである。
 過去未来合一的に絶対矛盾的自己同一として、即ち絶対現在として自己自身を形成する世界は、何処までも論理的である。かかる世界の自己形成の抽象的形式が、いわゆる論理的形式と考えられるものである。絶対矛盾的自己同一的現在の意識面において世界は動揺的である。我々は過去から未来への因果的束縛を越えて思惟的であると考えられる、自由と考えられる。行為的直観的現実をヒポケーメノンとして種々なる判断が成立する。我々が個物的なればなるほど、斯《か》くいうことができる。世界は種々に表現せられる。モナドが世界を映すと考えられる如く、個物の立場から全世界が表現せられるということができる。個物の立場からの世界の表現即ち判断が、行為的直観的に即ちポイエシス的に証明せられるかぎり、それが真であるのである。我々が自己自身を形成する世界の形成的要素として、行為的直観的に物を把握する所に、真理があるのである。そこには逆に世界が世界自身を証明するということができるであろう。
 我々が世界の形成要素として個物的なればなるほど、矛盾的自己同一的に自己自身を形成する唯一なる世界に
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