が相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成し行く、作られたものより作るものへとして無限に生産的であり、創造的である。かかる世界は、先ず作られたものから作るものへとして、過去から未来へとして生物的に生産的である。生物の身体的生命というのは、かかる形成作用でなければならない。是《ここ》において個物は既に機械的でもなく、単に合目的的でもなく、形成的でなければならない。動物的身体的であっても、意識的であるかぎり斯《か》くいうことができる。この故に動物の動作は衝動的であり、その形成において本能的であり、即ち身体的ということができる。そこに見ることが働くことであり、働くことが見ることである、即ち構成的である。見ることと働くこととの矛盾的自己同一的体系が身体である。しかし生物的生命においては、なお真に作られたものが作るものに対立せない、作られたものが作るものから独立せない、従って作られたものが作るものを作るということはない。そこではなお世界が真に一つの矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するとはいわれない。現在がなお形を有たない、世界が真に形成的でない。生物的生命は創造的ではない。個物はなお表現作用的ではない、即ち自由でない。歴史的世界においては主体が環境を、環境が主体を形成するといったが、生物的生命においてはそれはなお環境的である、歴史的主体的ではない。なお真に作られたものから作るものへではなくて、作られたものから作られたものへである。
 (私が斯くいうのは、かつて生物的生命を単に主体的といったのに反すると考えられるかも知れないが、生物的生命の世界ではいまだ主体と環境とが真に矛盾的自己同一とならないのである。真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。作るものが自己自身を否定して作られたものとなることが真に作るものとなるということが、作られたものから作るものへということであるのである。生物的生命の世界においてはいつも主体と環境とが相対立し、主体が環境を形成することは逆に環境から形成せられることである。単に主体的ということそのことがかえって環境的たる所以《ゆえん》である。自己自身を環境の中に没することによって、環境そのものの中から生きる主体にして、歴史的主体ということができる。そこでは環境は与えられたものでなく、作られたものであるのである。そこに真に主体が環境を脱却するということができる。生物的生命の世界はなおアン・ウント・フュール・ジヒの世界ではない。)
 生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。かかる発展は単に生物的生命の連続としてというのではない。さらばといって、単に生物的生命を否定することによってというのでもない。その自己矛盾に徹することである。生物的生命といえども既に自己矛盾を含んでいる。しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。かかる自己矛盾の極限において人間の生命に達するのである。無論それは幾千万年かの歴史的生命の労作の結果でなければならない。作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。
 過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。身体は生物的身体的ではなくして歴史的身体的である。我々は作られたものにおいて身体を有つのである。人間の身体は制作的である。我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々は何処までも表現作用的形成の欲求を有っている、制作欲を蔵している。この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。生物の本能的形成においても、既に爾《しか》いうことができる。本能というのも、生物と世界との関係から理解せられなければならない(行動心理学においてのように)。人間の本能は単にいわゆる身体的形成ではなくして、歴史的身体的即ち制作的でなければならない。人間の行為は表現作用的に世界を映すことから起るのである、制作的身体的に物を見ることから起るのである。行為的直観的に物を見るということは、制作的身体的に物を見ることである。
 我々は制作的身体的に物を見、斯《か》く物を見ることから働く制作的身体的自己においては、見るということと作るということとが矛盾的自己同一的である。物を制作的身体的に見るということは、物を生産様式的に把握することである、即ち具体概念的に把握することである。表現作用的自己として、矛盾的自己同一的現在の立場において物を把握するのである。それが真の具体的論理の立場であろう。そこに真なるものが実なるものである。抽象的知識とはかかる立場を離れたものとも考えられるであろう。しかしかかる実験の立場を離れて客観的知識というものはない。学問的知識の立場といえども、かかる立場を否定することではなく、かえってかかる立場に徹底し行くことでなければならない。矛盾は我々の行為的直観的なる所、制作的身体的なる所にあるのである。この故に矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、作られたものとして与えられたものを越え行くのである。而してその極、全然行為的直観的なるもの、身体的なるものを越えたものに到《いた》ると考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処《ここ》から出立したものであり、此処に戻り来るものでなければならない。無限の過去と未来とが相互否定的に現在において結合し世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、世界は何処までも超身体的として記号によって表現せられる、即ち単に思惟的と考えられるであろう。しかしそれはまた何処までも我々の歴史的身体を離れるということではない。
 絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。我々はこの世界において或物を形成すべく課せられているのである。そこに我々の生命があるのである。我々はこの世界に課題を有《も》って生れ来るのである。与えられたものは単に否定すべきものでもなく、また媒介し媒介せられるものでもない。成し遂げらるべく与えられたものである、即ち身体的に与えられたものである。我々は無手でこの世界に生れて来たのではない、我々は身体を有って生れて来たのである。身体を有って生れて来るということそのことが、既に歴史的自然によってそこに一つの課題が解かれたといい得ると共に(例えば昆虫《こんちゅう》の眼ができたという如く)、矛盾的自己同一として無限の課題が含まれているのである。我々が身体を有って生れるということは、我々は無限の課題を負うて生れることである。我々の行為的自己に対して真に直接に与えられたものというのは、厳粛なる課題として客観的に我々に臨んで来るものでなければならない。現実とは我々を包み、我々を圧し来るものでなければならない。単に質料的のものでもなければ、媒介的のものでもない。我々の自己に対して、汝《なんじ》これを為《な》すか然らざれば死かと問うものでなければならない。世界が一つの矛盾的自己同一的現在として私に臨む所に、真に与えられたものがあるのである。真に与えられたもの、真の現実は見出されるものでなければならない。何処に現実の矛盾があるかを知る時、真に我々に対して与えられたものを知るのである。単に与えられたものというものは、抽象概念的に考えられたものに過ぎない。我々は身体的なるが故に、自己矛盾的であるのである。行為的直観的に我々に臨む世界は、我々に生死を迫るものである。

 絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体を有つ、即ち歴史的身体的である。斯《か》くいうのは、我々人間は何処までも社会的ということでなければならない。ホモ・ファーベルはゾーン・ポリティコンであり、その故にまたロゴン・エコーンである。家族というものが、人間の社会的構成の出立点であり、社会の細胞と考えられる。進化論的に考えれば、人間の家族も動物の集団本能の如きものに基《もとづ》くとも考えられるであろう。ゴリラが多くの牝《めす》を連れて生活しおるのは、原始人の生活と同様であるといわれる。しかしマリノースキイなどのいうように、動物の本能的集団と人間の社会とは、一言にいえば本能と文化とは根本的に異なったものでなければならない(Malinowski, Sex and Repression in Savage Society[『原始社会における性と抑圧』])。エディプス複合の如きものが、既に人間の家族というものが社会的であって動物のそれと異なることを示すものであろう。本能というのは、有機的構造に基いた、或種に通じての行動の型である。動物の共同作業というものも、本能の内的応化によって支配せられているのである。それは人間の社会的構造とは異なったものである。人間の社会的構造には、それが如何に原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。何処までも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。故に動物の本能的集団というものは与えられたものたるに反し、人間の社会というのは作られて作り行くものでなければならない。多くの人が原始社会を唯団体的と考えるのに反し、私はマリノースキイなどの如く始《はじめ》から個人というものを含んでいるという考に同意したいと思うのである。原始社会にも罪というものがあるのである(Malinowski, Crime and Custom in Savage Society[『原始社会における犯罪と慣習』])。それは社会というものが動物の本能的集団と異なり、多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行くものたるを示すものでなければならない。個物は本能的適応的に働くのではなくして、既に表現的形成的でなければならない。原始社会構造において近親|相姦《そうかん》禁止というものが強き意義を有するように、社会は本\の抑圧を以て始まると考えられる。夫婦親子兄弟の関係がすべて本能的でなく、一々制度的に束縛せられる所に、社会というものがあるのである。
 かかる社会の成立の根拠は何処にあるか。既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。社会はポイエシスから始まるということができる。動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。しかしそれはすべてポイエシスということから考えられねばならない。私が社会を歴史的身体的と考える所以《ゆえん》である。社会は一つの経済的機構と考えられるであろう。社会は何処までも物質的生産的でなければならない。そこに社会の実在的基礎がある。しかしそれはいうまでもなく、ポイエシス的でなければならない
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