ネい。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。
 東洋的無の宗教は即心是仏と説く。それは唯心論でもなく神秘主義でもない。論理的には、多と一との矛盾的自己同一ということでなければならない。一切即一というのは、一切が無差別的に一というのではない。それは絶対矛盾的自己同一として、一切がそれによって成立する一でなければならない。そこに絶対現在として歴史的世界成立の原理があるのである。我々は絶対矛盾的自己同一的世界の個物として、いつもこれに対するということもできない絶対に接しているのである。即今目前孤明歴々地聴者、此人処々不滞、通貫十方[即今《そっこん》目前孤明|歴歴《れきれき》地《じ》に聴く者、此の人は処処に滞《とどこお》らず、十方に通貫す]といわれる。我々は自己矛盾の底に絶対に死して、一切即一の原理に徹するのが即心是仏の宗教である。※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1−14−45、80−8】祇今聴法者、不是※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1−14−45、80−8】四大、能用※【#「※」は「にんべん」に「爾」、第3水準1−14−45、80−9】四大、若能如是見得、便乃去住自由[※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1−14−13、80−9】《なんじ》が祇《た》だ今聴法するは、是れ※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1−14−13、80−9】が四大にあらずして、能く※【#「※」は「にんべん」に「尓」、第3水準1−14−13、80−10】が四大を用う。若し能く是の如く見得せば、便乃《すなわ》ち去住自由ならん]という。しかもそれは虚幻の伴子たる意識的自己ということではなく、そこには絶対否定的転換がなければならない。故にそれは唯心論とか神秘主義とかいうものとは逆に、絶対の客観主義でなければならない。真の学問も道徳も、これによって成立するのである。心といっても主観的意識をいうのでなく、内亦不可得であり、無といっても、有に対する相対的無をいうのではない。


 多と一との絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、自己自身をイデヤ的に形成し行く世界は、超越的なるものにおいて自己同一を有つ世界である。故にこの世界においては、個物は個物的であればあるほど、超越的一者
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