黷ホならない。世界が絶対矛盾的自己同一的なる故に、その自己形成の過程が単に機械的でもなく、合目的的でもなく、イデヤ的形成でなければならないのである。絶対弁証法的なるが故にイデヤ的直観的契機が含まれるのである。故に文化と宗教とは何処までも相反する所に、相結合するということができる。私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。自己が自己において自己の影を映すということは、私がしばしば表現作用の場合においていう如く、それは絶対の断絶の連続ということでなければならない。それは何処までも超越的なるものが自己矛盾的に内在的、即ち絶対矛盾的自己同一ということでなければならない。宗教は文化を目的とするものではない、かえってその逆である。しかし真の文化は宗教から生れるものでなければならない。
 絶対矛盾的自己同一の世界は自己自身の中に自己同一を有《も》たない。矛盾的自己同一として、いつもこの世界に超越的である。この故に限定するものなき限定として、その自己形成がイデヤ的である。斯《か》くこの世界が絶対に超越的なるものにおいて自己同一を有つということは、個物的多が何処までも超越的一に対するということでなければならない、個物が何処までも超越的なるものに対することによって個物となるということでなければならない。我々は神に対することによって人格となるのである。而して斯く我々が何処までも人格的自己として神に対するということは、逆に我々が神に結び附くことでなければならない。神と我々とは、多と一との絶対矛盾的自己同一の関係においてあるのである。絶対矛盾的自己同一的世界の個物として我々は自己成立の根柢において自己矛盾的なのである。それは文化発展によって減ぜられ行く矛盾ではなくして、かえって益※【#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、78−2】|明《あきらか》となる矛盾であるのである。超越的なるものにおいて自己同一を有つ矛盾的自己同一的世界においては、作られたものから作るものへとの行為的直観的なポイエシス的過程は何処までも無限進行でなければならない。我々はその方向において絶対者に、神に結び附くのではない。我々は我々の自己成立の根柢において神に結合するのである(我々は被創造物であるのである)。
 過去と未来とが自己矛盾的に、現在において同時存在的なる矛盾的自
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