る。かかる世界においては、見るということと働くということとが矛盾的自己同一として、形成することが見ることであり、見ることから働くということができる。我々は行為的直観的に物を見、物を見るから形成するということができる。働くという時、我々は個人的主観から出立する。しかし我々が世界の外から働くのではなく、その時既に我々は世界の中にいるのでなければならない。働くことは働かれることでなければならない。我々の働くということは、単に機械的にとか合目的的にとかいうことでなく、形成作用的ということであるならば、形成することは形成せられることでなければならない。我々は自己自身を形成する世界の個物として形成作用的に働くのでなければならない。
 過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合より成ると考えることができる。斯《か》くいうことは、かかる世界は一面にライプニッツのモナドの世界の如く何処《どこ》までも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕《はら》む一つの時間的連続である、一つの世界である。しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。モナドが世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点である。かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる。無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお
前へ 次へ
全52ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング