的でもない、合目的的でもない、而してそれが真に論理的ということである。矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、我々が働くということはない。私の過去と未来とが現在において結合し、作られたものから作るものへ、現在から現在へという矛盾的自己同一は、我々の自己意識によっても分るであろう。我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、矛盾的自己同一的に爾《しか》考えているのであろう。しかし斯《か》くいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を説明しようとするのではない。逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として即ちモナド的に爾あるのである。

 右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、過去と未来とが現在において対立し、矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということである。歴史的世界においては単に与えられたものはない。与えられたものは作られたものである。環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、形相が質料を形成するという如きことではない。物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。そこに生物的種との区別があるのである。イデヤ的に生産的なるかぎり、即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、それは生きた社会である。
 私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を
前へ 次へ
全52ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング