く、抽象的に選出せられるのでなく、歴史的に形成せられるのでなければならない。斯くして真の共栄圏と云うものが成立するのである。併し自己自身の中に真の世界性を含まない単に自己の民族を中心として、そこからすべての世界を考える単なる民族主義は、民族自己主義であり、そこから出て来るものは、自ら侵略主義とか帝国主義とか云うものに陥らざるを得ないであろう。今日、英米の帝国主義と云うものは、彼等の民族自己主義に基くものに外ならない。或一民族が自己自身の中に世界的世界形成の原理を含むことによって始めてそれが真の国家となる。而してそれが道徳の根源となる。国家主義と単なる民族主義とを混同してはならない。私の世界的世界形成主義と云うのは、国家主義とか民族主義とか云うものに反するものではない。世界的世界形成には民族が根柢とならなければならない。而してそれが世界的世界形成的なるかぎり国家である。個人は、かかる意味に於ての国家の一員として、道徳的使命を有するのである。故に世界的世界形成主義に於ては、各の個人は、唯一なる歴史的場所、時に於て、自己の使命と責務とを有するのである。日本人は、日本人として、此の日本歴史的現実に於て、即ち今日の時局に於て、唯一なる自己の道徳的使命と責務とを有するのである。
 民族と云うものも、右の如く世界的世界形成的として道徳の根源となる様に、家族と云うものも、同じ原理によって道徳の根源となるのである。単なる家族主義が、すぐ道徳的であるのではない。世界的世界形成主義には家族主義も含まれて居るのである。之と共に逆に、共栄圏と云う如きものに於ては、嚮に云った如く、指導民族と云うものが選出せられるのではなく、世界的世界形成の原理によって生れ出るものでなければならない。ここに世界的世界形成主義と国際連盟主義との根本的相違があるのである。

 神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。
 我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。



底本:「西田幾多郎全集 第十二巻」岩波書店
   1966(昭和41)年1月26日発行
   1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:nns
校正:土屋隆
2004年8月20日作成
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