得、新な徳を具《そな》え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない。コペルニカスの地動説が真理であろうが、トレミーの天動説が真理であろうが、そういうことは何方《どちら》でもよい。徳行の点から見ても、宗教は自ら徳行を伴い来るものであろうが、また必ずしもこの両者を同一視することはできぬ。昔、融禅師《ゆうぜんじ》がまだ牛頭山《ごずさん》の北巌に棲《す》んでいた時には、色々の鳥が花を啣《ふく》んで供養《くよう》したが、四祖大師《しそだいし》に参じてから鳥が花を啣んで来なくなったという話を聞いたことがある。宗教の智は智その者を知り、宗教の徳は徳その者を用いるのである。三角形の幾何学的性質を究めるには紙上の一小三角形で沢山であるように、心霊上の事実に対しては英雄豪傑も匹夫匹婦《ひっぷひっぷ》と同一である。ただ眼は眼を見ることはできず、山にある者は山の全体を知ることはできぬ。此《この》智|此《この》徳の間に頭出頭没する者は此《この》智|此《この》徳を知ることはできぬ。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖《けんがい》
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