さなかった。今日、諸君のこの厚意に対して、心|窃《ひそか》に忸怩《じくじ》たらざるを得ない。幼時に読んだ英語読本の中に「墓場」と題する一文があり、何の墓を見ても、よき夫、よき妻、よき子と書いてある、悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。諸君も屍に鞭《むちう》たないという寛大の心を以て、すべての私の過去を容《ゆる》してもらいたい。
彼はこういうようなことを話して座に復した。集れる人々の中には、彼のつまらない生涯を臆面もなくくだくだと述べ立てたのに対して、嫌気を催したものもあったであろう、心窃に苦笑したものもあったかも知れない。しかし凹字形に並べられたテーブルに、彼を中心として暫く昔話が続けられた。その中、彼は明日遠くへ行かねばならぬというので、早く帰った。多くの人々は彼を玄関に見送った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消え去った。(昭和三年十二月)
底本:「続思索と体験『続思索と体験』以後」岩波文庫、岩波書店
1980(昭和55)年10月16日第1刷発行
底本の親本:「西田幾多郎全集第十二巻」岩波書店
1950(昭和25)年
初出:「思想 第八十三号」
1929(昭和4)年4月
入力:nns
校正:土屋隆
2006年3月20日作成
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