ちを悟り「好うこそ私を此の様に捕えて縛り、職務を行い得ぬ様に妨げて下さった、若し貴方がたが、此の断乎たる非常策を施さなんだなら、森主水は今までに無い職務上の大失策を遣らかし、同僚の物笑いと為って、探偵としての名誉を全く地に委《い》する所でした」とて深く謝したと云う事である、夫から森主水の繩を解いて遣ると彼は至急に運動せねば可けぬとて、其の夜の中から昨日へ掛け一生懸命に奔走して、其の反証が全く真物《ほんもの》で有る事を夫々突き留め、其の上に彼の高輪田長三が其の後も秀子を陥しいるる為に倫敦の解剖院の助手に賄賂して、女の死骸を買い取った事までも分り、昨日の昼頃礼|旁々《かたがた》にそれ等の次第を報じて権田の許へ来たに依り、権田は直ぐ様同道して此の土地へ出張し、既に其の夜の中に余の叔父に逢いて、前に森主水に告げた丈の事実を悉く叔父にも告げたとの事である、爾して猶彼は、要を摘まむに慣れた弁護士の弁舌で、余の知らぬ様々の事を語った。
第百二十回 思案も智慧も
権田時介は言葉を継いだ。「私と一緒に来た森主水は第一に高輪田長三を逃さぬ様にせねばならぬとて彼長三の室へ行って見ると、流石悪人だけ、自分の身の危い事を知ったと見え、早や逃げ去った後でした、其処へ丁度此の土地の警察から森主水の手下が来て、先に消滅した浦原お浦嬢が此の土地の千艸《ちぐさ》屋に潜んで居るとの事を告げましたから、扨は長三め、必ずお浦嬢の所へ行っただろうと森主水は直ちに又其の家へ馳せ附けましたが其の家にも長三は居ず、其の上にお浦嬢の姿さえ見えぬので、甚く失望して帰って来ました、後で医者の言葉を聞くと長三は数日来、持病の心臓が起り、物に驚きでもすれば頓死すると云いました、シテ見ると逃げ去る途中で死ぬるかも知れません」余は話に釣り込まれ「ハイ彼長三は既に心臓病の為に昨夜死んで了ったのです」と云い、此の権田には隠すにも及ばぬ訳だから事の次第を詳しく語った、権田は合点の行った様に「それでは昨夜私が、貴方の叔父朝夫君に詳しく秀子嬢の身の上を語り終り、其の枕許で椅子に凭《よっ》たまま微睡《まどろん》で居ると、何か異様な叫び声が微かに聞こえた様に思いましたが其の声が彼長三の死に際の悲鳴でしたな」と驚きつつ点頭《うなず》いた。
余「では最う叔父は詳しく秀子の事を知って居ますな」権田「ハイ叔父御は秀子が其の実輪田夏子だと云う事を先日高輪田長三の毒舌で聞されて非常に心を痛めて居たのですから私が悉く其の輪田夏子の清浄潔白な次第を告げたのです、それを聞いて叔父御の喜びは一方ならず、是で最う病気も癒ると云い、私を引き留めて放さぬのです、到頭私は叔父御の枕許で夜明かし同様に明かしました、ですが丸部さん肝腎の私自身が未だ秀子の其の後の有様を知らぬのです、今は何所に居るのですか」余「甚く疲れて居室へ退きましたから多分今は寝て居るのでしょう」権田「シタが貴方の約束は」余は少し不機嫌に「ハイ厳重に履行しました、秀子は全く私を恨み、不幸の境遇に陥った女を憐れむ事さえ知らぬ見下げ果てた男だと本統に愛想を盡して居るのです」
之を聞いて権田は痛く打ち喜ぶかと思いの外聊か面目なげに「実に邪慳な約束でお気の毒に思いますが」と、一昨夜の様に代え、頭を掻いて何だか打ち萎れた様子である、余は猶も腹の底に癒え兼ねる所が有るから未練ではあるけれど「貴方は定めし満足でしょう」と聊か厭味の語を洩らした、権田「イヤ私は失礼ながら貴方を見損なって居ましたよ、斯うまで身を犠牲にして約束を守るとは、アア今時に珍しい真に愛す可く尊う可きお気質です」と云って暫し考えた末「併し叔父御が頻りに貴方の事を気遣い、何所へ行ったのだろうなどと云って居ますから、他の話は後にして先ず叔父御の寝室へお出でなさい」
余は其の意に従いて彼と共に叔父の室へ行った、叔父は随分病み耄《ほう》けて居るけれど、余ほど回復したと見え、床の上へ起き直り「オオ道九郎か、何より先に其の方へ頼み度いは何うか秀子を探して来て、己に代わって詫びをして呉れ、己は秀子を疑ぐって済まなんだ、昨夜此の権田氏から聞けば権田氏が今まで秀子の為に盡されたも感心だが、秀子の清浄潔白なのも感心だ、夫を知らずに己は秀子が其の輪田夏子だと聞いて、数日来胸が悪く思って居た、実に相済まん訳である、殊に其の昔第一に輪田夏子の死刑を主張したのは此の己だが、其の罪が夏子でなかったとすれば重々己の過ちだ、孫子の末まで裁判官などを勤めさせる者ではない、それに就けても憎いのはアノ高輪田長三だ、彼は養母お紺が毎年一度銀行から一切の財産を引き出して検める事を知り、それを窃む為に倫敦から忍び返ってお紺を殺したのだ、其の疑いを輪田夏子へ掛け自分は其の金を隠して置き年を経るに従って漸々《だんだん》に引き出して自分の物にして了った
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