代々此の家の主人の外に知る者無く、爾して主人は死に絶えた為に恐らくこの針を動かし得る人は此の世に無い筈だ、余の叔父さえも、数日来色々の旧記を取り調べて此の時計の捲き方を研究して居た、余は若《も》しや川から反射する夕日の作用で余の眼が欺されて居るのかと思い猶能く見るに、全く剣が唯独りで動いて居るのだ。真逆幽霊が時計を捲く訳でも有るまい。

第二回 幽霊の正体

 誰が何《どう》して戸を捲くかを知らぬ錆附いた時計の針が、塔の上で独りで動き始めるとは唯事で無い、併し余は是しきの事には恐れぬ、必ず仔細が有ろうから夫を見出して呉れようと思い、直ちに進んで塔の中へ這入った。
 勿論番人も無い、入口の戸も数年前に外した儘で、今以て鎖して無い、荒《あば》ら屋中の荒ら屋だ、頓《やが》て塔へ上る階段の許まで行くと、四辺が薄暗くて黴臭く芥《ごみ》臭く、如何にも幽霊の出そうな所だから、余は此の屋敷に就いての一番新しい幽霊話を思い出した、思うまいと思っても独り心へ浮んで来る。其の話たるや後々の関係も有るから茲に記して置くが、此の屋敷を本来の持主たる丸部家から買い取ったのは、其の家に奉公して居た輪田お紺と云う老女だ、何でも濠洲へ出稼ぎして居る自分の弟が死んで遺身《かたみ》として大金を送って来たと云う事で、其の金を以て主人の屋敷を買い取り、此の塔の時計室の直下《すぐした》に在る座敷を自分の居間にして、其の中で寝て居たが、或る夜自分の養女に殺されて仕舞った、夫《それ》は今より僅かに六年前の事で、其の時から今まで此の屋敷はガラ空になって居るが、其の老女の亡魂も矢張り幽霊に成って其の殺された室へ今以て現れると云う事だ、其の室は丁度余が立って居る所の頭の上だ、斯う思うと何だか頭の上を幽霊が歩いて居る様な気もする。
 爾して其の殺した方の養女と云うは直ぐに捕まり裁判に附せられたが、丁度余の叔父が検事をして居る頃で、叔父は我が為に本家とも云う可き同姓の元の住家へ又も不吉な椿事を起させた奴と睨み、多少は感情に動かされたが、厳重に死刑論を唱えて目的を達した。勿論其の女は決して自分が殺したので無いと甚《ひど》く言い張ったけれども何よりの証拠は左の手先の肉を、骨へまで死人に噛み取られて居て、死人の口に在る肉片と其の手の傷と同じ者で有った上幾多の似寄った証拠が有った為言い開きは立たず、死刑とは極ったが唯|丁年《ていねん》未満で有った為一等を減じて終身の禁錮《きんこ》になり、四年ほど牢の中に苦しんで終に病死した、其の女の名は確かお夏――爾だ輪田お夏と云った。
 余は此の忌わしい話を思い出し、少し気が怯《ひるん》だけれど、素より幽霊などの此の世に在る事を信せず、殊には腕力も常人には勝れ、今まで力自慢で友人などにも褒められて来た程だから「ナアニ平気な者サ」と故《わざ》と口で平気を唱え、階段を登り始めた。
 登り登りて四階まで行くと、茲が即ち老女輪田お紺の殺された室だ。伝説に由ると室の一方に寝台が有って、其の上からお紺が口に人の肉を咬え顋《あご》へ血を垂らしてソロソロ降りて来ると云う事だ、何分にも薄暗いから、先ず窓の盲戸を推開《おしあ》けたが、錆附いて居て好くは開かぬ。夫に最も夕刻だから大した明りは射さぬ。何処に其の寝台が有るか、此の上の時計の裏へは何して登られるかと、静かに透す様にして室の中を見て居ると、一方の隅で、人の着物を引き摺る様な音がする、其の中に眼も幾分か暗さに慣れたか、其の音の方に当り薄々と寝台の様な物も見える。
 すると其の寝台の上に、何だか人の姿が有って起き直る有様が殆ど伝説の通りで在る、此の様な時には暗いのが何より不利益(幽霊にとっては利益かも知らぬが)だから余は窓の方へ寄り、最《もう》一度|盲戸《めくらど》を今度は力一杯に推して見た、未だ盲戸は仲々開かぬに、怪しい姿はソロソロと寝台を下り、余の傍へ寄って来るが併し足音のする所を見ると幽霊では無さ相だ、けれど幽霊よりも却って薄気味が悪い。余は猶も力を込めて戸を推したが、メリメリと蝶番《ちょうつがい》が毀れて戸は下の屋根へ落ち、室の中が一時に明るく成った、とは云え夕明りで有るから昼間ほどには行かぬが幽霊の正体を見届けるには充分で有る。
「能く其の戸が脱《はず》れましたよ、私しも開け度いと思い、推して見ましたけれど女の力には合いませんでしたが」
 之が幽霊の発した初めての声で音楽の様に麗しい、余は荒々しく問い詰める積りで居たが、声の麗しさに、聊《いささ》か気抜けがして柔《やさ》しくなり、「今し方、大時計の針を動したのは貴女でしたか」
 と、問いつつ熟々《つくづく》其の姿を見ると、顔は声よりも猶麗しい、姿も婀娜《なよなよ》として貴婦人の様子が有る、若し厳重に批評すれば其の美しさは舞楽に用ゆる天女の仮面と云う様な塩梅《あんば
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