でも自分の室へ随意に出入りの出来る様に合鍵を渡してある事も之で分る、余「オヤオヤ若し自殺でもする積りで馳け出したのでは有るまいか」権田「馳け出したには相違ないが自殺の為では有りません、自殺する様な気の弱い女なら今までに自殺して居ます、深く自分に信ずる所が有って、其の所信を貫く為に牢まで出たほどの女ですもの、容易に自殺などしますものか」余「兎に角も其の後を追い掛けねば」権田「お待ちなさい。何でも是から何処かへ身を隠す積りでしょうが、非常に用心深い気質ですから、後で人に見られて悪い様な書類や品物を焼き捨てる為に幽霊塔へ引き返したに違い有りません」余「では私は直ぐに幽霊塔へ帰ります、兎に角、停車場まで行って見ます」
 早や立ち上ろうとすると権田は又も引き留めて「ナニ幽霊塔へ行ったなら、此の通り森主水を押さえて有るから秀子が直ぐに捕縛される恐れはなく、猶だ一日や二日は安心です、緩々私と相談を極めた上でお帰りなさい」余「左様さ愈々幽霊塔へ行ったのなら一時間や二時間を争う訳では有りませんが、若し幽霊塔へ行かずに直ぐに出奔したなら大変です、兎に角停車場まで行き、見届けて来るとしましょう」権田「ではそう成さい、ですが、若し停車場で秀子に逢っても貴方が一緒に幽霊塔へ帰っては了ませんよ、唯秀子に、猶二三日は大丈夫だから落ち着いて幽霊塔に居ろ、其のうちに安全な道を開いて遣るからと斯う云って安心させ、爾して此の家へ引き返してお出でなさい」成るほど是が尤もな思案である、余と権田との間に、未だ少しも相談の極まった所がないから、最う一度引き返して来べきである。「宜しい、好く分りました」との一語を残して余は直ぐにパヂントンの停車場へ馳せ附けたが、生憎塔の村へ行く汽車の出る所だ、一髪の事で余は後《おく》れたのだ、ハテな秀子が此の汽車へ乗ったか乗らぬかと気遣いつつ其の汽車を見て居ると、一等室の窓からチラリと秀子の姿が見えた、さては全く幽霊塔へ帰るのだナと是だけは先ず安心し、次の汽車は何時かと時間表を検めると今のが真夜中の汽車で、次のは午前一時半の終列車だ、猶だ一時間半だけは権田と相談する事が出来ると、気を落ち着けて、茲で電報を認め、秀子へ向けて兎も角も一二日は安心だから余の帰るまで幽霊塔を去る勿れとの文意を送り、爾して約の如く又権田の許へ引き返した、全体権田が何の様な事を云う積りだか、聞き度くも有り聞き度くもなしだ。
 権田はイヤに落ち着いて煙草を燻らせて居たが、余から停車場での事柄を聞き取り終わって「ソレ御覧なさい、私の云うた通りです、秀子のする事は自分の事の様に私の心へ分ります」余「其の様な自慢話は聞くに及びません、早く相談の次第を」権田「云いますとも、サア此の通り私には秀子の心が分って居るに附いて、有体に打ち明ければ、イヤお驚き成さるなよ、残念ながら秀子の心は少しも私へ属せず深く貴方へ属して居るのです」恋の敵から斯様な白状を聞くは聊か意外では有るけれど余は当り前よと云う風で「夫が何うしたのです」権田「全くの所、秀子が先刻気絶したのも貴方に自分の旧悪を知られ、貴方が到底此の女を妻には出来ぬと断言した為、絶望して茲に至ったのですけれど、お聞きなさい、貴方は到底秀子に愛せられる資格はない、既に旧悪の為愛想を盡したのだから、エ爾でしょう、夫に反して此の権田時介は先刻も云った通り少しも旧悪に愛想を盡さぬのみか、其の旧悪をすら信じては居ぬのです」余「エ、旧悪を信ぜぬとは」権田「詳しく云えば秀子は人殺しの罪は愚か何等の罪をも犯した事のない清浄潔白の女です」余「何と仰有る、裁判まで受けたのに」権田「其の裁判が全く間違いで、外に本統の罪人が有るのに周囲の事情に誤られて、無実の秀子を罰したのだから、夫で私が秀子を憐れむのです。否寧ろ尊敬するのです、秀子は真の烈女ですよ」

第九十二回 貴方は人間

「秀子が清浄、秀子が潔白」余は思わず知らず声を立て、跳ね起きて室中を飛び廻った、真に秀子を何の罪をも犯した事無く、唯間違った裁判の為牢に入れられたとすれば少しも秀子を疎んず可き所は無い、寧ろ憐れむ可く愛す可く尊敬す可きだ、権田の云う通り全くの烈女である、世にも稀なる傑女である。
 とは云え意外千万とは此の事である、如何に裁判には間違いが多いとは云え何の罪をも犯さぬ者が、人殺しの罪人として、罪人ならぬ証拠が立たず、宣告せられ処刑せられる様な怪しからぬ間違いがあるだろうか、余りと云えば受け取り難い話である。
 若しも秀子の人柄を知らずして此の様な話を聞けば余は一も二も無く嘲り笑って斥ける所である、今の世の裁判に其の様な不都合が有る者かと誰でも思うに違い無いけれど、秀子の人柄を知って居るだけに、そう斥ける事が出来ぬ、何う見ても秀子は罪など犯す質では無く、其の顔容、其の振舞い見れば見るほど
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