は、併しナニ茲が痴情の然らしむる所でしょう、私としても貴方の地位に立てば貴方と同様のことを目論むかも知れませんから先ア深くは咎めますまい、兎も角も貴方の其の目論見を妨げて、貴方が法律上の罪人に成るのを喰い止めたのは何よりも幸いです、他日貴方も痴情が醒め、静かに考え廻して見れば実に好い所へ森主水が来て邪魔して呉れた、彼が来なくば全く罪人を逃亡させる容易ならぬ罪に触れる所で有ったと御自分で私を有難くお思いなさる、ハイ夫は必ずですよ」
 自問自答の様に述べ終って、更に容儀を正して爾して秀子の方へ振り向いた、此の時まで余は唯呆気に取られ殆ど茫然として居たが、彼が容儀を正すを見て、初めて真成に秀子の身の危険な事を暁《さと》った、彼は容儀の改まると共に、全く厳めしい法律の手先と云う威厳が備わり、何となく近づき難い所が現われた、権田時介も余と同様に、此の時初めて秀子の危険を知り、容易ならぬ場合と思ったか、電光の様に余に目配せした、余も同じく目配せした、目配せの中には暗々《やみやみ》秀子を渡して成る者かと云う意味が籠り充分互いに通じて居る。
 森主水は秀子に向かって「モシ、輪田夏子さん綽名《あだな》松谷秀子嬢、貴女を茲で捕縛するは私の最も辛く思う所ですが、私情の為に公の職務を怠る訳には行きません、養父丸部朝夫に対し毒害を試みた嫌疑の為に、貴女は唯今から私の捕縛を受けた者とお心得なさい」丁寧な言葉では有るけれど、其の意味は「御用だぞ、神妙にせよ」と叱り附けるのと少しも違いはない。
 アア養母殺しの輪田夏子、死刑終身刑の宣告を受け、首尾よく牢を脱け出だして松谷秀子と生まれ代わり今は又養父殺しの罪に捕わる、業か因果か、無実の罪か抑《そもそ》も又|覿面《てきめん》の天罰か。
 余と権田とは再び眼を見交わせた、船を同じくして敵に合わば呉越も兄弟、今まで競い争うた恋の敵も、秀子捕縛の声の為には忽ち兄弟の様に成って、言い合わせる暇もないが、早くも二人の間に分業の課が定まり、時介は飛鳥の様に室の入口に飛んで行き、其の戸に堅く錠を卸し、猶念の為にと自分で戸を守って居る、此の心は探偵を其の室から此のままは帰さぬ積りであろう、余も其の呼吸に少しも後れず、直ちに後ろから森主水に飛び附いて、抱きすくめ、爾して其の顎をば拉《ひし》げるほどにしめ附けた、之は声を立てさせぬ用心である。此の様な事には余の大力が最も適して居る、権田とても随分頑丈な男では有るが、荒仕事に掛けては大力の評判の有る余に及ぶ筈はない、彼自らそうと知って其の身は戸を守る役を勤め荒仕事を余に振り分けたは当意即妙と賞めても好い、探偵は余の手の内で悶くけれども宛も悪戯児供の手に掛かった人形の様である、グーの音も出る事でない、権田は此の様を見て「好く遣った、其の手を少しでもお弛め成さるな、探偵などと云う者は得て呼子の笛を鳴らします、其の笛を鳴らしたら、万事|休焉《きゅうす》です、今に私が呼吸の根を止める道具を持って来ますから」と云って次の室へ退いた。

第九十回 鸚鵡返し

 探偵森主水の呼吸の根を止めると云って、権田時介は何の様な道具を持って来る積りか知らん、次の室へ這入って了った。まさかに探偵の息の根を本統に止める訳には行かぬ、余には余だけの考えがある。
 けれど森主水は必死の場合と思ったか、時介の恐ろしい言葉を聞いて益々悶掻き始めた、余は実に気の毒に堪えぬ、然り余の心には充分の慈悲があるけれど余の手先には少しも慈悲がない、彼が悶掻けば悶掻くだけ益々しめ附ける許りである、此の様を見兼ねたか、松谷秀子は青い顔で余の前に立ち「此の方が幽霊塔で私の挙動を見張って居た探偵ですか、若しそうならば何うか其の様な手荒な事を仕て下さるな、私の為に人一人を苦しめるとは非道です、私は捕縛せられようと、何うされようと最う少しも構いません」健げなる言い分では有るけれど余は唯「ナアニ」と云って聞き流した、思えば実に邪慳な乱暴な振舞いでは有る、余は自分で自分が非常な悪人に成った様に感じた、若し他人が女の為に探偵を此の様な目に逢わせたならば余は其の人を何と云うであろう、決して紳士と崇めは仕まい、それもこれも皆秀子の為だから仕方がない。
 其の中に時介は次の間から出て来た、見れば四五人の人を捕縛しても余る程の長い麻繩と、白木綿の切れとを持って居る、彼は縛った上で猿轡を食《は》ませて置く積りと見える、余の了見とても詰りそれに外ならぬ、唯秀子を無事に落ち延びさせる迄此の探偵の手足の自由を奪い、爾して声を出させぬ様に仕て置けば宜いのだ、時介は余に向かい「丸部さん、少しも手を弛めては了ません、足の方から私が縛りますから、ナニ私は水夫から習って繩を結ぶ術を心得て居りますよ、私の結んだ繩は容易に解ける事では有りません」と云い早や探偵の両足を取り、グル
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