たが、大して骨も折れずに其の刃が突串《つきとお》った。板の厚さは僅かに四分位である、是ならばと所々に穴を開け、頓て全身に力を籠めて、推しつ叩きつした。初めてから三十分と経ぬうちに其の板を推し破った。此の様な事なら、早く気が附けば好かったのに、併し夫は今思うても帰らぬ事、兎に角室を脱け出すは勝利の第一歩だから、何の様な所かと又も燐燧の二本のうち一本を擦って見ると思った通り廊下であるが、此の廊下はダラダラと雪崩の様に向うの方へ傾いて居る。偖《さて》は穴倉へでも通じて居るのかそれとも下の室へ出られるのかと、下へ下へと降りて行くと突き当たる所に又戸がある。アア是で分った、絵姿の所の板が薄かったのも、全くはアノ板を破ったとて茲に此の様な戸が有って到底外へ出られぬ様に成って居る為である。アノ板戸はホンの身を隠して中を瞰《のぞ》く便利の為仕切りだけに設けたのだ。
爾すればアノ戸を破ったのも実際何の役にも立たぬかと、聊か残念におもい、先ず四辺《あたり》の様子を考えるに、此の戸の前へは横手からも廊下が来て居て、茲で「丁」の字形になって居るらしい。横手へ行ったとて矢張り、突き当りに戸が有るのに極って居るから、先ず此の戸から試そうと、厚い薄いを叩き試みるに、戸の先に人の声がする。「ナニ医学士、其の様に甚く叩かずとも其の戸は先ほど婆さんが瞰きに行ったとき開けた儘で、錠は卸りて居ないのだよ」此の声は確かに穴川甚蔵である。錠が卸りて居ないとは何たる仕合せだろう。余は蘇生の心地をして「医学士ではなく私ですよ」と云いつつ其の戸を開いて内へ這入った、果して甚蔵の寝て居る室である。
第六十二回 毒蜘蛛
今考えて見ると彼の絵姿を貼ってあった所は元の戸口で有ったけれど、其の戸がなくなったので板を填めそうして壁の色の違うのを隠す為に詰まらぬ絵を貼り、旁々外から内の様子を窺く便利に供して置いたのだ。つまり彼の室の内で一番破り易い所であった。余が彼処へ目を附けたのは幸いで有った。其の上に丁度甚蔵の寝室の戸の開いて居る時に出て来たのは殆ど天の助けとも云う可きだ。
余が甚蔵の室へ這入ると、彼は寝て居ながら直ちに短銃《ぴすとる》を取って余を狙い「身動きをすると命がないぞ」と威かした。余は落ち着いた調子で「穴川さん、貴方は馬車で此の家へ帰り着くまで、有難いの、命の親だと私を拝まぬ許りで有ったのに、短銃を以てその謝意を表するのですか」穴川は余の顔を打ちながめて、「エ、エ、貴方ですか、大場医学士が貴方だとは云わぬ者だから」と言訳の様に云いつつも猶短銃を下げようとはせぬ。余は此の忙しい間にも大場と云う名を耳に留め、偖《さて》は秀子の服と思われる彼の日影色の被物から出た名刺に大場連斎とあったのが全く此の悪医者だなと、心の底にうなずいて「ハイ汽車の中から此の家まで貴方を介抱して来た当人です、ナニ未だ逃げもせず、貴方を害しもせぬから暫く其の短銃をお下げなさい」穴川「イヤ此の身体では此の外に頼りとする者も有りませんから下げません。けれどナニ貴方が正直にさえ仕て居れば、必ず射殺すと云う訳でもないから」余「では有体に云いますが、貴方に少し話が有るから、外の人に妨げられぬ様に此の室の戸を閉じなさい」余「鍵は何所にありますか」穴川「鍵は其の戸に附いた儘で有る筈です」成るほど錠前の穴へ填った儘である。余は全く此の家を立ち去る前に厳しく穴川に談判して置かねば成らぬと思う為、医学士の這入り得ぬ様、中から確かに錠を卸した。爾して室の中を見廻すと、穴川の枕許に、小卓の上へ、食物を盛った皿や飲物などが出て居る。多分は医学士が仕事を了った上で夜食する積りであろう。けれど遠慮する場合で無い。「穴川さん今日一日|食干《ひぼし》に遭った為、空腹で言葉の順序さえ間違い相です。先ず御馳走に與かりますよ、話は腹の出来た上に致しますから」と云い、卓子に就いて遠慮無く喫《た》べ始めた。勿論粗末な品では有るが、此の様な旨い思いは、覚えてから仕た事がない。甚蔵は感心した様子で「アア好い度胸だ、立派な悪党に成れる」と独語《ひとりごと》の様に云うて居る。余「ナニ悪党などに成り度くは有りませんが、腹の空いた時に喫いたいのは度胸の有無に係わりませんのさ」
余が喫べて居る間に室の外では頻りに足音がする。何でも医学士と婆とだろう。音の様子では余の閉じ籠められて居た室を検めに行ったらしい。今に驚いて降りて来るだろうと思う間もなく、果たしてドサクサと降りて来て室の外から「博士、博士、大変だよ、彼奴巧みに様子を察し、身代りを立てて置いて逃げて了った」確かに医学士の声だ。穴川「ナニ逃げはせぬ、今此の室で、貴殿の用意して置いた、夜食を喫べて居るのよ」医学士「エエ彼奴がか、余っぽど腹が空いたと見える、拙者の今までの経験では空腹ほど人を意気地なくす
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