空腹も大した苦痛ではない。
余は何か返礼をと思い、次の室へ行った、化粧台の中にある小箱や抽斗の戸などを外して来て夫等を砕いて煖炉に火を焚いて遣った。ナニ此の室の造作は悉く薪にしても惜しくはない、手当り次第に持って来て投げ込むと中々大きな火が燃え出したが、秋とは云えど朝などは早や肌寒を覚える頃だから、彼白痴の喜ぶ事、手を拍って煖炉の前で雀躍《こおどり》して居る、是が多分は余が生まれて以来第一等の功徳であろう。
第六十回 後に三本
煖炉の燃えて居る間に余は次の室に行き戸棚の中を検査したが、殆ど無一物の有様では有るけれど棚の隅に二三の薬壜が埃に埋まった儘である。若し余の想像の通り秀子が此の室に入った事が有るとすれば或いは是等の薬を呑んだかも知れぬと、取り出して埃を吹き払い、其の貼紙を見ると、一個は「阿片|丁幾《ちんき》(毒薬)」と記して有る、一個は「発病の際|頓服《とんぷく》す可し」とあり、残る一個は単に「興奮薬」とのみ記して有る。医学の心得のある人なら是だけで何等かの想像も附くだろうが、余には別に手掛りと云う程の手掛りにもならぬ、次に押入を開いて見たが、下の隅に着物を丸めて突込んだと云う様な一塊がある。取り出すと非常に黴臭いが、確かに女の着物で、是も二三種は有る様だ。先ず別々に取り分けたが、其の内の一枚は秀子のに相違ない、秀子が何時も着て居る日影色の無地である、今一枚は少し短くて幅が広いかと思われる、之は仕立の粗末な所が何うも出来合いの安物を買ったのらしい。或いは虎井夫人が着たのでは有るまいか、此の着物と一緒に成って、白布の上っ張がある、之は看護婦などの着けるのだ、扨は秀子が此の室で病気をして看護婦でも呼んだのであろうか、夫とも秀子か虎井夫人かが之を着けたのであろう、執れとも判り兼ねる。
今一枚、妙な浅黄色のが有るから最後にそれを検めると、余は実に気分が悪くなった。何うだろう、其の服は英国の監獄署で女の囚人が着ける仕着せである。真逆に秀子が此の様な物を被た筈はない。虎井夫人であろう、爾だ虎井夫人だ、虎井夫人だ、念の為衣嚢を引っ繰返して見れば、或いは中から誰のだか分る様な品物が出るかも知れぬ、ドレ引っ繰返そうかと余は手を出したけれど容易にそれほどの勇気が出ぬ、万に一つも秀子のと云う証拠でも出たなら取り返しが附かぬ、イヤ其の様な筈はない、何で秀子が囚人の服などを着ける者かと、又思い直して終に其の中を取り調べたが有難い事には中に何にもない。矢張り誰のとも分らぬのだ、エエ余計な心配をしたと、つまらぬ事を安心して是から残らずの着物の衣嚢を検めたが、唯一つ秀子のと思われる日影色の着物から一枚の名刺が出た、唯夫だけの事だ。
名刺の活字は鉛筆で甚く消して有る。けれど熟く視れば読める、「医学士大場連斎」とある、これが彼の医学士であろうか、更に名刺の裏を見ると、同じ鉛筆の文字で細かく「今の境遇にて真に御身を助け得る人は仏国巴里ラセニイル街二十九番館ポール・レペル氏の外には決して之なく候、既に同氏へ御身の事を通信致し置き候間、直々に行きて御申込成さる可く候」とある。何の事だか分らぬけれどこれこそは大切の手掛りとも云う可きだ。余が此の室を逃げ出し得ずして死んで了えばそれ迄だが、若し死骸と為らずして此の室を出る事が出来たなら必ず此のポール・レペルと云う巴里人をも尋ねて見よう。秀子を助け得るは此の人の外に無いと云う意味だから、秀子が何の様な境遇で何の様に助けられたのか夫とも茲に「御身」とあるは、秀子ではないのか、其の辺の事を突き留めずには居られぬ。
其のうちに早や午後と為り日暮と為った。余は空腹が益々空腹と為る許りだ。此の上に取り調べる所もないから、もう逃げ出す道を求める一方だが、さて何うしたら逃げ出されよう、少しも見込みが附かぬ。
考えながら次の室へ行って見ると、彼の白痴は煖炉の前に仆れ、眠ったかと思えば可哀相にサ、余が眠らぬ為此の者にまで食物の差し入れがないと見え弱り果てて、物欲し相にサ、余の顔を眺める許りだ。余は傷《いた》わって「今に私が此の室から連れ出して上げるから、ヨ、辛くても少しの間、辛抱して居るのだよ」と言い聞かせた。彼は聞き分けたと見え、重そうに起き上った、爾して自分の足と繋がれて居た鎖とを、暫しの間見較べて、頓て余の今まで居た次の間の方へ行った。
見れば既に煖炉の火も消えて居る。猶焚く物は有るのだから、再び火を起すのは容易だが、何しろ燐燧が乏しいから夜に入って寒くなるまで此のままに置くが好かろう。
夜に入らぬうち逃げ道を探すのが肝腎だと、余は又立って室中の窓を悉く検めたが、孰れも真の牢屋の様に、鉄の棒を入れてある棒の中に、若しや上下の弛んで居るのはなかろうかと、一本々々を揺さぶって見るけれど孰れも堅固だ。幾等余の力を加え
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