。余は医学士に一ぱい陥《は》められた。
第五十七回 後は真の暗闇
戸を閉じる音を聞きて余はハット驚いた、若しや医学士に一ぱい陥められたのではなかろうか、斯う思って狭い廊下を、戸口の所へ馳せ附けたが、残念、残念、事既に遅しである。外から既に戸に閂木を差し了った後である。
今思うと余は実に愚かであった、医学士が意外に弱い音を吐いて、少しも余の立ち去るのを妨げぬ様に云った時、余は彼の心に一物ある可きを看て取らねば成らぬ処であった。真逆に少しも疑わなんだ訳でもないが、斯様な巧みとまでは気附かなんだ、殊に手燭を置いて行かれた嬉しさに、此の燈光で室の中を見ようと思い、イヤ見ようと思うほどの暇もなく、只浮っかり見廻して居る間に、早くも斯様な目に逢ったのだ。
戸の外には未だ医学士と婆とが居るらしいから、余は戸を叩いて「モシモシ何で此の戸をお締めなさる」と叫んだ。医学士は鍵穴の辺へ口を接近させた様子で「イヤ貴方は其の室の中の住者を大層お可愛がり成さる様子だから当分同居させて上げようと思いまして」と無体極まる言葉を吐いて呵《から》々と打ち笑った、余は怒髪冠を衝くと云う程の鋭い声で「実に貴方がたは失敬です、人を一室へ閉じ込むなどと」医学士「左様、夜中に他人の家へ忍び込むのと大体似寄った仕打ちでしょう、私の方ばかりが失礼でも有りませんよ」余「余り卑怯です。私の所業に咎む可き所が有れば公公然とお咎め成さい。逃げも隠れもする男では有りません、裁判所の召喚にでも、決闘の挑発書にでも、ハイ何にでも応じます」医学士「爾でしょうよ、決闘などは仲々お強そうだ、今では迚も私は叶いませんから最う四五日も経てばお相手致しますよ。先ア其の室に四五日居て御覧なさい、幾等貴方が強くとも飢えと云う奴には勝てませんよ、好い加減に身体が弱って、決闘するなどの心がなくなりますから、ハイ其の節緩くり御意見を伺いに参りましょう」
此の様な横着な、狡猾な、爾して癪に障る仕打ちが又と有ろうか、余を飢えさせて弱らせて其の上で相手にする積りで居やあがる、余「では四五日も私を此の室へ閉じ籠めて置くと云うのですか」医学士「ハイ抵抗力のなくなるまでお宿を致す外は有りません」余「実は貴方がたのする事は人間に有るまじき所業です、何等の卑劣、何等の卑怯です、私の立ち去るのを少しも邪魔せぬなどと云い欺いて油断させて置いて、出し抜けに私を此の室へ閉じ込むなどと」医学士「ハイ夫が貴方に教わった兵法のいろはですよ。確か停車場へ荷物を取りに行くとか云って私に油断させ、爾して此の家へ忍び込んだは貴方でしたねえ、唯貴方の名刺を頂かなんだは残念ですが、夫を戴いたりする間に気が附かれては成らぬと、何れほどか私の心が迫《せ》かれたでしょう。ナニ名刺は今戴かずとも貴方が抵抗力のなくなった頃、衣嚢を探れば分ります。何しろ貴方のお得意の此の兵法のいろはと云うは、用いて見ると仲々功能が有りますねエ」余は悔しさに地団太を踏んだ。余「エエ、其の様な無礼な言葉は聞きたく有りません、口数に及ばず一言でお返辞なさい。此の戸を開けますか開けませんか」医学士「ハイ一言で申します、開けません」とせんの語音に非常の力を込めて云う憎さ、余「開けねば内から叩き破ります」医学士「何うかそう願います」余は我が身が微塵と成っても宜いと、全身の力を込めて戸に突き当ったが宛で石の壁に突き当てたる様な者だ、音はするけれどビクともせぬ、外からは医学士が「オオ中々力がお強い、今に戸が破れますから精出してお突き当り成さい」
無益とは知っても斯う冷かされては其の儘止む訳に行かぬ、最一度突き当たって驚かせて遣ろうと、身構えをして居ると、忽ち室の中が暗くなって来た。余は此の時までも気附かずに居たが、医学士の置いて行った手燭の短い蝋燭が段々に燃え下り、到頭燃え盡きて了ったのだ。エエ残念な事をしたと、是も今更後悔の念に堪えぬけれど仕方がない、医学士は鍵穴から此の様を窺いて知ったと見え「サア婆さん最う行こうよ、己はな、油断させる為に手燭を室の中へ置いて来たから、夫が気に成り何でも蝋燭の盡きるまで調弄《からこ》うて居るが得策だと思ったが最う調弄うて居る必要もなくなった」と云い捨てて全く立ち去る様子である。彼何所迄悪智恵の行き届く悪人だろう。到底余の如きの手に終える奴ではない、余は只管に呆れつつも「お待ちなさい、お待ちなさい」と呼び立てた。けれど彼は耳にも掛けずに去って了った。後は深山の様に静かで、爾して真の暗闇である。
第五十八回 絵姿の眼
余は実に痛い目に遭った、真暗な一室へ閉じ籠められ、今は如何ともする事が出来ぬ。
何うすれば好いだろうと様々に考えても何の思案も浮んで来ぬ。此のまま茲に飢死にせねば成らぬだろうか。そうだ何うも飢え死ぬるまで此の室の囚人となって居る
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