に当たる。
占めた、占めた、最う秘密は手近で有ろうと又も燐燧を擦って見ると只の広い板の間で少し先の方に室らしい処が見え、入口の戸が新しく目立って居る、是だなと其の前へ立ち、暫く戸に耳を当てて居たが、其のうちに微かながらも異様な声が内から聞こえた。人だか獣だか夫までは分らぬけれど、長く引く呻吟《うめき》の声だ、其の物凄い事は何とも云えぬ。唯ゾッとする許りである。
第五十五回 暗《やみ》の中の一物
余が何よりの失念は蝋燭を買い調えて来なんだ一事で有る。此の様な時に燐燧の明かりほど便りない者は無い、少しの間、少しの場所を照すけれど、直ぐに燃えて了って其の後は一層暗くなる様な感じがする。若し衣嚢の中に忍び蝋燭が一挺あったら、何れほどか助かるだろうに、殊に心細い事は、生憎余が持って居る燐燧が残り少なく成って居る、数えて見ると僅かに十二本しか無いのだ、十二本の燐燧で暗い暗い此の蜘蛛屋の大秘密を見究める事が出来ようか。
けれど唯一つ幸いなは戸の鍵穴に鍵が填った儘である、猶予すれば益々恐ろしく成って気が怯む許りだから余り何事も考えずに、目を瞑って猛進するが宜かろうと、余は直ぐに其の戸を明けて中へ這入った。仲々重い戸である、牢獄の戸かとも思われる戸の中が、暫しの間矢張り廊下になって居る様子だが、狭い事は非常である、決して二人並んで通る事は出来ぬ。余は此の狭い所をば、挾まれる様になって三間ほども歩んでヤッと広い所へ出た。茲が即ち室に違い無い。獣類だか人だか分らぬ声を発したも此の室の中に住んで居る何かの業であろう。
多分此の室は今、医学士の婆と話して居る頭の上に当たるらしい。「アレが動くのだ」と云った物音も此の室だろう。アレの本体も此の室で分るだろう。余は狭い所から身体を半分出して様子を伺ったが、室の中には不潔極まる臭気が満ちて居るけれど、何の物音もせぬ。茲こそはと、燐燧を擦《こ》すると、未だ其の火が燃えも揚らぬ中に、忽ち右手の暗から黒い一物が飛び出し、余の前を掠めて左の暗へ跳ねて這入った。余の燐燧は消されて了った。のみならず其の物が強く余の手に触れた為、余は肝腎の燐燧の入物を何所へか叩き落された。
暗がりでは命にも譬う可き燐燧を、箱ぐるみ叩き落されては、何うする事も出来ぬ。余は真に途方に暮れ、唯身を蹐めて床の上を探る許りだ、何でも燐燧の箱を探し出さぬ事には一寸の身動きもせられぬ場合だ。
ソロソロと探る手先に、塗れ附く様な気のするのは床の埃で、仰山に云えば五六分も積んで居ようか。此の様な所で、人にもせよ獣にもせよ、能く命が続いたものだ。燐燧の箱も或いは埃の中へ埋まったかも知れぬ、夫とも何処かへ飛び散ったのか、余の手の届く丈の場所には無い。斯して居る間にも何者かが暗の中から余の挙動を伺って居る者と見え、手に取る様に其の呼吸が聞えるのみならず、呼吸の風が温かに余の頬に触わるかとも疑われる。
余は漸くに燐燧の箱を探り当てたが、何うだろう中は全く飛び散って空になって居る、之には全く絶望した。箱さえも埋まるかと思う埃の中で、細い燐燧に何うして探り当てる事が出来よう。と云って探らずには居られぬから、今は自狂《やけ》の様で、前へ進み出で、右に左に探るうち今度は更に今の怪しい生物に探り当てた。何だか匍匐《よつんばい》に這って居る様子だが獣物でなく、人の様だ。寒いのか恐ろしいのかブルブルと震えて居る、今の時候では未だ震える程の寒さではないが、爾すれば全く余を恐れての事と見える。
斯う思うと余は聊か気丈夫に成った。先が余を恐れるならナニも余が先を恐れるには及ばぬ、寧ろ声を掛けて安心さして遣るが宜いと、低い声で「コレ何も己を恐れる事はない、お前の敵ではなく味方だよ、助けに来たのだよ」と云った、けれど少しも通ぜぬ様子だ、シテ見ると或いは人ではなく、矢張り獣物だか知らんと、又一応探り廻して見ると確かに被物《きもの》、而も襤褸《ぼろ》を着ては居るが背中に大きな堅い瘤の様な者がある。ハテな脊僂《せむし》ででも有ろうかと其の瘤を探り直すと、出し抜けに彼は余を跳ね返した。
余は不意の事に、思わず背後へ手を突いたが、有難い其の手の下に正に一本の燐燧がある。早速に之を取り上げ、自分の被物で擦って見ると、明かりと共に余の目に映ずるは双個の光る眼である。次には大きな口から白い歯を露出《むきだ》して光らせて居るのも見える、人間は人間だが、余ほど異様な人間である。エエ最う一本燐燧が有ればと思う折しも、背後の方に荒い足音が聞こえて誰かヅカヅカと這入って来た。見咎められて捕われては大変ゆえ余は直ぐに燃え残る燐燧を吹き消し、遽てて背後を向いて見たが、狭い彼の入口から手燭を持って、医学士と其の後に婆が続いて入り来るのであった。
第五十六回 兵法のいろは
医学士は早や狭い廊下
前へ
次へ
全134ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング