人の来ぬ様にしたいと云うのが主になって居る。
夫は扨置き婆は暫く弁解の様に、又余を攻撃する様に、述べ立てて居るうち、其の弱い脳髄は早や疲れたと見え、徐々と言葉の筋道が立たなくなり、最後に「オヤ、私は何を云って居たか知らん」と云い少し考え込んだまま元の狂人に復って了った、此の様を見ると多少は気の毒にもなる。
婆に再び問い試みたとて此の上好結果を得る見込みはない、余は無言と為って甚蔵の枕許に控えて居たが、彼は傷から熱を発しでもしたか、目は醒したけれど囈言《うわごと》の様な事を云って居る、もはや先刻馬車の馬丁に頼んで遣ったペイトン市の医者が来そうな者だのに未だ来ない。其のうちに日も暮れた、腹も幾分か空いて来た、何とか思案をせねば可けぬ、併し思案とて外にない。余自らペイトン市へ、行って来る一方だ。医者とても馬丁に頼んだ丈ゆえ果して通じて居るか否か覚束ない、ナニ余の足でなら一走りだ、行って来ようと決心し、分る人に云う様に婆に甚蔵の介抱に就いての注意を与え、爾して外へ出て見たが、秋の天気は変り易く、雨もボツボツ降り、風も出て居る。
暗さも暗いけれど、迷うほどの込み入った路ではない、只管《ひたすら》に急いで凡そ一里ほども行くと林から続いて小高い丘がある、来る時に馬車で越した所だから勿論丘と名を附け兼ねるほどの小さい丘ではあるが、余が此方から登る途端に、向うから来て丁度其の一番高い所へ来掛けた人があり、下の方から透して見ると、何だか鞄の様な物を提げて居るらしい。其の風附《ふうつき》が何うしても医者である、医者でなくては夜に入って此の辺へ来る筈がない、余は咄嗟の間に一種の考えが浮んだから、間近くなるを待って此方から声を掛け「其所へ来るのは医学士では有りませんか」と云った。婆の云うた医学士と此の医者と或いは同人では有るまいかと試して見るのだ、彼は声に応じ「オヽ私を呼ぶのは何方です」と問い返した。
第五十二回 木の下へ穴
此奴が穴川甚蔵と云う立派な博士の相棒の其の医学士とすれば、余は後々の為に此奴の素性や挙動までも一応は探って置き度く思うから、今は此奴に成る可く油断をさせて置かねばならぬ。
咄嗟の間に此の様に思案を定め、余は口から出任せの名を名乗り、実は偶然穴川と同車して彼の怪我を救い、其の家まで送り届け、医者を迎えに遣ったけれど、其の来ようが余り遅い故、何時までも待つ訳に行かず、自分で医者の家へ立ち寄った上、其のまま立ち去る積りであるとの旨を答えた、彼は聞き終って「でも私を医学士と呼び掛けたは何う云う訳です」と問い返した。ヘンお出でだな、此奴が世間一般に医学士として知られて居る男なら、誰に医学士と呼び掛けられても自ら怪しみは仕まいけれど、医学士と云うは唯穴川などから呼ばれる一種の綽名か符牒の様な者なので、呼び掛けられて自分で少し後暗く思うのだ、余は是も言葉巧みに「イヤ彼の家に変な婆さんが居て、最う医学士が来そうな者だなと云って居ましたゆえ、夫で私は医学士ですかとお尋ね申したのです」彼は合点し「爾でしたか。私は唯知らぬ人から医学士と呼び掛けられ、別に自分の肩へ医学士と云う建札をして居る訳でもないのに、何うして分ったかと怪しみましたが、併し貴方は私と共に彼の家へ引き返しますか」余「ハイ引き返さねば済みませんが、実は取り忙いだ用事を控えて居ますので、成ろう事なら、此のまま立ち去り度いと思います、素人の私が怪我人の枕許に居たとて貴方のお手伝いも出来ませず」と非常に当惑の体を粧うて云うた。彼は少し考え「貴方は別に荷物などを彼の家へ残しては有りませんか」勿論荷物とては初めから一点も持って居らぬけれど「イヤ荷物は悉く停車場へ預けて有ります、其の中には日を経ると傷む者も有りますので猶更グズグズは仕て居られません」彼「御尤も、夫では宜しい怪我人は私が引き受けました」と一通りの挨拶を言って其のまま医学士は進んで行った。
余は直ぐに彼の後を見え隠れに尾けて帰ろうかと思ったが、外に多少の用意もあるから爾はせずに真直ぐにペイトン市へ行き第一には食事を済ませ、第二には人の家へ忍び込むとき足音のせぬ様に、漉毛《すきげ》で作った靴を買い、第三には若しもの用意に色々な道具の附いた小刀を一挺買い求めた。事に寄ると余は随分盗賊にも探偵にも成れる男かも知れぬと、此の様に思って独り可笑く感じたが、併し無駄事を考えて居る場合でないから直ぐ様元の養蟲園へ引っ返した、第一に目指す所は無論彼の潜戸の中に在るのだ。
再び養蟲園へ着いたは夜の十二時頃で有った。若し彼の潜戸の中が何れほど恐ろしい所かと云う事を前以て知って居たなら余は斯う引き返す勇気は出なんだかも知れぬ、茲が世に云う盲蛇だ、知らぬほど強い者はない、愈々帰り着いて様子を見ると、宵に少しばかり降った雨も歇《や》んで風の音の
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