の身の秘密も自然に分るに違いない、斯う思って、腹の中で「ナニ蜘蛛などが恐ろしい者か」と繰り返してお題目の様に唱え、馬車の所へ復《かえ》って来て、穴川甚蔵に、寝間は何所に在るかと聞いた、早く彼を家の中へ寝かして遣らねば成らぬから。
「寝間は二階の二室目です」と彼は答えたが、此の怪我人を二階まで運び上げる訳には行かぬ。下の何所かへ寝台だけ降して来て寝かさねばならぬ、更に其の由《よし》を甚蔵に告げて置いて又も家に入り、其所此所を見廻すと、曩《さき》に犬の居た室を隔て其の次に階段がある、狭い裏階子の様な者だ。此の辺にも若し蜘蛛が居はせぬかと見廻しながら階段を上ったが見廻して居て仕合せだったよ、若し見廻さずに昇ろう者なら飛んでもない目に逢う所であった。
第五十回 閉じ込んで置く者
見廻しつゝ登ると階段の中程の横手の壁に潜戸《くぐりど》の様な所がある、何か秘密の一室へでも通ずる隠し道ではあるまいか、戸の色と壁の色と一様に燻《くすぶ》って閉じてあれば、容易には見分けも附くまいが、開いて居る為余の目には留まった。
余が其の前を過ぎようとすると、中から誰か黒い石片《いしきれ》の様な者を投げ附けた、余は大いに用心して居る際ゆえ手早く身体を転《かわ》して何の怪我もせなんだが、後で見たら危ない哉、石片の様に見えたは古い手斧の頭であった、何者の仕業かと少し躊躇して居ると、潜戸の中から以前の婆が、手に斧の柄だけを以て立ち現われ、階段を遮って、寄らば打たんと云う見幕で、其の斧柄《おのえ》を振り上げ「茲へ入っては可けません」と叫び横手の潜戸を尻目に見た、誰も入ろうとは云わぬのに、アア分った此の婆は多少精神が錯乱して居て、爾して多分日頃から甚蔵に、此の潜戸へ人を入れては成らぬと言い附けられて居るのだ、爾すれば此の潜戸の中に此の家の秘密を押し隠してあるのではなかろうかと、此の様に思ったけれど今は穿鑿する時でない、先ず婆を取り押えようと、三つ四つは擲《なぐ》られる積りで敢然と進んで行くと婆は少年の様に身を軽く潜戸の中へ隠れて了った。
余は其の前を通って二階に入り、甚蔵の寝室と云うへ行って見ると、茲も一方ならず荒れて居て古い寝台二脚の外に蒲団|毛布《けっと》寝巻などの類が五六点、散らばって居る、其のうちの好さ相な毛布《けっと》を二枚選び寝台に載せて持ち上げたが、余の大力にも仲々重いけど、下まで運ばれぬことはない、運ぼうとして俯向いて居ると、背後から出し抜けに余の頭をしたたか擲った者がある、振り向いて見ると今の婆で早や二度目を打ち下そうと彼の斧の柄を振り上げて居る、余は遽てて其の痩せた凋《しな》びた手を捕え鋭く叱り附ける調子で「何を成さる、私を敵とでも思ってですか」と云いつゝ篤と其の顔を見ると婆は柄にない子供の様な声で「オヤ甚蔵の敵ではないの」と問い返した、愈々以って狂人だ、余「敵ならば大怪我をした貴女の息子を何で故々馬車に乗せてここまで送って来ますものか」婆は驚き「エ甚蔵が怪我をした、アノ馬車に寝て居ますか」と云って捕えた手を振り離して下へ行った、狂人でも親子の情は別と見える、是で以て婆が甚蔵の母と云う事も分った、後には余が寝台を引きずり、斜めに階段の上をすべらせて下へ卸しつつも、潜戸の所を見ると早や戸を閉めて壁だか戸だか一寸と見分け難い程になって居る、狂人の用心深いも驚く可しだ、ナニ今に此の潜戸の中を検める時も来るだろうと呟き、其のまま下へ降りて廊下を其処此処と検めたが、漸く然る可き一室を見出して、甚蔵を寝かせる丈の用意を済ませた、茲には幸い余の嫌いな蜘蛛も居ぬ。爾して再び馬車の許へ行き、犬と婆とを押し退けて馬丁に手伝わせ、甚蔵の頭と足とを持って叮嚀に家の中へ運んだが、此の叮嚀には大いに婆と犬とに信用せられたと見え、双方とも有難相に尾を振って(イヤ婆は手を――振って)転々《ころころ》と随いて来る、頓て甚蔵を寝台に上せ、馬車には定めの上の賃銀を与え猶ペイトン市から至急に医者を寄越して呉れと言い附けて帰し、爾して余は婆や犬やに対するには却って権柄を示すが宜いと思い、殆ど主人風を吹かせて甚蔵の頭元《まくらもと》へ座を占めたが、甚蔵は家に帰り着いた安心の為好く眠り込んだ、婆は唯|茫乎《ぼんやり》して甚蔵の寝顔を見て居る、爾して犬は獰猛な質に似ず、余の膝へ頭を擦り附けて居る。
婆は此の様を見て「アア貴方は甚蔵の敵でない、敵なら此の犬が斯うは狃染《なじ》みません」余は口軽く「ナニ甚蔵に敵などある者か」と云いて口占《くちうら》を引くに、婆「でも此の家へ来る者は皆敵だから誰も入れては可けぬと甚蔵が云いますもの、閉じ込んで置く者の外は誰も入れません」閉じ込んで置くとは何を指して云うのだろう、余は又軽く「閉じ込んで置くとは蜘蛛の事ですか」婆「ナニ此の上のですよ」と云って天
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