肥え太って居る。顔の色は紅を差した様に真赤だ、蓋し酒に焼けたのであろう、酒好きの人には得てある色だ、爾して顔の趣きは、恐ろしげと云い度いが実に恐ろしげでなく存外柔和だ、ニコニコとして子供でも懐《なつ》き相な所がある、誰やらの著書に、悪相を備えたる人は一見して人に疑わる、故に真の悪人たる能わず、真の悪人には人を油断せしむる如き愛らしき所のある者なりとの、意味を記してあるのを見たが、此の男などが或いは其の一例では有るまいか、併し能く見ると眼の底に一種の凄い光を隠しては居る、是は博奕などに耽る人に能くある目附きだよ、何うしても尋常の人間ではない。
 余は余り彼の様子を見るも宜くないから、唯夫となく一通り見た儘で、彼の反対の側に身を安置し、背後へ寄り掛って眠そうな風を示して居た、茲で読者に断って置くが、昨年の秋ローストンの附近で、線路の故障の為に汽車が転覆した事は、読者が新聞紙で読んだ所であろう、此の汽車が即ち其の汽車で、余も乗り合わして居る一人であったが、勿論其の場に着き其の事変に逢うまでは神ならぬ身の露知らずであった、夫は扨置いて余が眠そうに背後へ寄り掛って居る間に、彼、安煙草は安煙草を咬えた儘で、腰掛けの上へゴロリと横に為ったが、悪人ながらも仲々気楽な質と見え直ちに雷の如き鼾を発して本統に眠って了った、尤も夜の二時より三時の間だから、誰しも眠くなる時ではあるのだ。
 彼の鼾と汽車の音と轟々相い競うて、物思う余の耳には誠に蒼蝿く感じたが、余も何時の間にやら眠って了った、何時間経ったか此の時は知らなんだが後で思うと二時間余も寝たと見え、フト目の覚めたは夜の引き明ける五時頃であった、見ると彼、安煙草が早や余よりも先に起き直って余の寝顔をジッと見詰めて居る、勿論別に悪気が有っての為ではなかろう、余り所在のない時に、同乗の客の顔を見て居るなどは、誰もする事である、余は茲ぞ彼と話を始める機会と思い、ナニ彼が何も言わなんだのは知って居るけれど、故と「オヤ貴方は今、何か私に仰有いましたか」と寝ぼけた様に問うた、彼は平気で「イイエ何も言いは致しませんよ」と、返事する言葉は此の国此の近辺の声ではなく、確かに仏国の訛を帯びて居る、多分本国を喰い詰めて、此の国に渡って来た人であろう、余「併し最う何時でしょう。夜汽車は随分淋しい者ですネエ」と言うを手初めに話の口を開いたが、彼は宵のユスリの旨く行かなんだを猶だ気に障《さ》えて居るのか、顔の柔和さに比べては何となく不機嫌である、話に釣り込れようとはせぬ。
 けれど其のうちに彼は新しい安煙草に火を附け直し、一寸近くも吸うた上で漸くに「貴方は塔の村の停車場から乗りましたネ」と余に問い掛けた、占めたぞ此奴幽霊塔を自分の出稼ぎ場か戦場の様に思って居るので其の近辺の事柄を問う積りと見える、斯なれば余り口数を利かぬ方が却って安心させる元だろうと思い、唯「ハイ」とのみ答えた、果して彼は進み出て「アノ土地に住んで居ますか」余「ハイ彼の村の盡処《はずれ》に昨年から住んで居ます」彼「名高い幽霊塔の中は御覧なさったでしょうね」余「彼の様な恐ろしい噂ばかり有ります所を誰が見ますものか」彼「では少しも塔の事を知りませんか」余「先頃から都の金持が引き移って大層立派に普請した様子ですが未だ招かれた事は有りませんから」彼「アレは丸部朝夫と言う官吏揚りです、彼処に此の頃養女に貰われた女がありますが――」余「爾々大層な美人だとて村の者は評判します」彼は嘲笑って「ヘン、美しくて評判、ナニ美しいよりも最と評判される事が有るのですワ」余「ヘエ貴方は能く御存じですねエ」感心した様に目を見張り、馬鹿になって彼の顔を見揚げるに、彼は悪人には似合わしからぬほど得意げに「世間に私ほど、能く彼の女の事を知った者は有りません、実は彼の女に古い貸し金が有って前夜も催促に行きましたが、最う立派な身分に成ったと思い、高ぶって居て私を相手に仕ませんワ」
 全く悪人にしては少し喋り過ぎる様だけれど、余は夫よりも異様に感じたは秀子の素性だ、此奴に何か秘密を知られて居るのは無論であろうが、夫にしても決して賤しい身分ではなく、生れ附き立派な令嬢であろうと余は確かに思い詰めて居るのに、此奴の言葉では何だか賤しい素性の様にも聞こえる。「立派な身分になったと思い」などの言葉はそうとしか思われぬ、彼は猶言葉を継いで「旨く仮面などを被って居やがって、ヘン仮面を剥って見るが好いワ、イヤ仮面は剥らずとも、左の手の手袋を脱いで見るが好い、中から何の様な秘密が出て来るか、夫こそ丸部の養女では居られまい。如何な養父も驚いて目を廻すわい」と今は全くの独語となり、いと腹立しげに呟いて居る。
 仮面を被るとは勿論譬えの言葉で、地金を隠して居ると言う意味に違いない、秀子が本統に仮面など被って居る筈はない、
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