訳でなく、先が離れぬのです、昨日や今日の間柄でないのですから、私も詮方なく我慢をして居ます」余は猶充分の不審を帯びて「ヘヘエ、爾ですか」と云う計りだ、秀子は説き明かす様に「私の乳婆《うば》だものですから」と言い足した、成るほど成るほど、夫で読めた、乳婆ならば何となく秀子を監督する様な素振りの見ゆるも尤もだ、乳婆ならば振り放したとて向うが平気で随って居る事もあろう、殊には幼い時から秀子の身の秘密をも知って居るので猶秀子から解傭《かいよう》する事は出来まい。
 此の日は是で済んだが、翌日は例のお浦の消滅一条を詮索する為此の屋敷の堀の底を網で探ると云う事になった、真逆にお浦が死骸になって堀の底に沈んで居ようとは思われぬ、成るほどお浦が余に約束の回復を迫った末、身でも投げるかの様に見せ掛けて堀の方を指し走って行った事の有るのは余は知って居るけれど仲々身投げなどする女ではない、其の後で直ぐに秀子を誘って引返して来た丈でも分って居る、或いは誰かに投げ込まれた者とせんか、それも取るに足らぬ考えだ、お浦の消滅は閉じ切った室の中で起った事件で、少しも堀などに関係はない、だから余は堀の底を探ると聞いて直ぐに叔父に問うた「何の為に堀の底と云う見当を附けたのです」と、叔父は少し当惑の体で「イヤ見当を附けたのではない、何の手掛りもなくて探偵も高輪田氏も甚く心配して居て、此の方は其の心配を坐視するに忍びぬから、高輪田に向い「最早尋ねる所がないから念の為堀の底でも探って見ますか」と云うた、すると高輪田氏は飛び附く様に「私も実は堀の底を探り度いと思って居ましたが御主人が其の御了見なら早速探らせて頂き度い」とて先に立って探偵に説き付けた、探偵は躊躇の気味で「何の手掛りも得ずに、唯深い堀が有るからと云って堀を探るは職業上の恥辱だ」と答えたけれど何しろ千円の懸賞をまで出した人の言葉を無下に聞き流す事も出来なんだか夫に又高輪田氏が「ナニ手掛りのないのに困じて堀を探るのではなく、既に土堤の芝草を踏みにじった所が有ったではないか、是だけの形跡が有れば、兎にも角にも探らずには置かれまい」と云い此の方も自分の口から言い出した事だから傍から賛成の意を表した、夫で探偵も遂に同意し、既に先刻から其の用意を始め、舟も艇庫《ていこ》から出し、此の土地の巡査なども監督の為に出張して居る、最う大方着手する所だろう」と斯う答えた、勿論余は異存など云う可きでなく、最しや腹の中でも無益だろうと思っても念の為探る方が当然には違いないから、唯「アア爾ですか」とのみ答えたが、探って愈々何の様な結果になるだろうとは、神の様な炯眼の読者でも知る事は出来まい、今思うと実に此の様に意外に、恐ろしい結果は又と有るまい、本統に身の毛が逆立つよ。

第三十六回 大変な事を発明

 堀の底から何が出るか、既に捜索に着手して居ると云うから、余は行って見たく思うけれど、猶だ医者から外出の許しを得て居ぬゆえ、塔の上から見るとしよう、ナニ堀端まで行った位で余の身体が悪く成る気遣いはないけれど、今は充分に此の身を自重せねば成らぬ時際《とき》だ、是から何の様な闘いに臨まねば成らぬかも知れぬ、毒蜘蛛の巣窟と云う蜘蛛屋へも行かねば成らぬかも知れぬ、秀子の為に骨身を砕かねば成らぬかも知れぬ、何でも大事に大事を取って、一日も早く此の身を鉄の様に丈夫な日頃に癒して了わねばならぬ。
 塔の四階に在る自分の室へ登ったけれど、少しの事で充分には見えぬ、もう一階上へ行けばと日頃メッタに昇った事のない時計室へ上って見たが茲ならば先ず我慢が出来る。堀から堤《どて》の九部通りは目の中に在る、堀の中には三艘の小舟があって、一艘は探偵が乗って差図をし、二艘は此の土地の巡査らしい人が乗って網を引き廻して居る、幾等捜したとて消滅した浦原お浦が死骸と為って其の底に沈んで居る筈はない、鯰でも捕える位が関の山だからと此の様には思うけれど何となく終りまで見て居たい。之が人情と云う者だろう。
 見て居るうちに余の頭の上で、大きな鳥が羽叩きでもするかと思われる様な物音がした、之は兼ねて秘密の組織と云う此の塔の時計が時を報ずる間際なので、先ず此の様な音を発するのだ、傍で聞くと物凄い程に聞こえる、余は今まで秀子の忠告は受けたけれど深く此の時計の組織などを研究した事はないが、時を打つ時には何か異様な事が有るか知らんと思って、立って検めて見たが、時計の大きさは直径一丈ほども有る、下から見るよりは三倍も大きいのだ、而して其の時刻盤の裏の片隅に直径三尺ほどの丸い鉄板を張ってある、何故か此の鉄板は緑色に塗って有る、何の為の板であろう、時計の機械に甚く関係のある様にも思われぬが、或いは取り脱す事でも出来るか知らんと、力を籠めて動かして見ると仲々動く所ではない、叩いて見ると厚さも可なり厚
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