刻と為った。叔父は此の前日に数名の下部《しもべ》を引き連れて此の家へ来、松谷秀子も今朝来たと云うことで二人とも非常な好い機嫌である、来客も中々多く、後から後からと遣って来る、やがて叔父より客一同に対して、此の度松谷秀子を養女にしたとの披露も終り、客より夫々の祝詞なども済み、爾して愈々舞踏に取り掛る場合と成った、勿論客の眼は一番多く秀子に注ぎ、誰も彼も先に秀子と共に躍《おどろ》うと思い其の旨を申し込むけれど、秀子は充分に返事をせぬ。何だか物思わしげに控えて誰をか待って居る様子に見える、扨は最初の相手に余を選ぶ積りで夫で他の人を断って居るのだな、と余は斯う思って秀子の傍に行き「秀子さん何うか最初の踊りを私と御一緒に」と云うに、秀子は少しも喜ぶ様子が無い。「イイエ先刻から皆様に御断り申して居ります、今に否と云われぬ人が来るだろうと思いますから」オヤオヤ余より猶其の様な人が有るだろうか、余は聊か嫉ましい様な気がした、「其の人は誰ですか。以前から今夜の会に共に躍ると約束して有るのですか」秀子「イイエ約束はして有りませんが、若し其の人が所望すれば私は断る事が出来ません、其の人の許しを得ぬうち他の人と踊れば後で叱られるかも知れませんから」と益々異様な言い様だ。後で叱るなどとは父か所天《おっと》で無くては出来ぬ事だ、余「其の人は誰ですか。私の叔父ですか」秀子「イイエ、阿父《おとう》様では有りません」早や阿父様と云うは聊か耳立って聞こえるけれど、是は先日既に余の叔父が、爾後は阿父様と呼ぶ様に厳重に言い渡したので有る、余「叔父でなければ誰ですか、誰ですか、其の人の名を仰有《おっしゃ》い」秀子は余の熱心な有様が可笑いのか「オホホホ、其の様に仰有らずとも今に分ります」余「分る事なら今仰有い」秀子「権田時介と云う弁護士ですよ」余「エ、権田時介ですか」と余は驚いて叫び「権田時介なら私も知って居ますが彼はアノ殺人女の――」秀子「ハイ人殺しの裁判を受けた輪田お夏を弁護した其の人です」余「何故貴女は彼を夫ほど尊敬します、彼は貴女の何ですか」秀子は少し口籠って「何で有ろうとあの方の差図には、私は従わねば成りません」余「分りました、彼は貴女の未来の良人ですね」若し未来の所天ならずば、何で差し図などする者か、するとも何で従わねば成らぬ筈が有る者か、余は今までに此の女に許嫁の所天などが有ろうとは思いも寄らず
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