して来たのが、忌々しい、併し夫よりも差し迫った問題は何うして此の松谷秀子を虎の顋から救い出すかと云うに在るのだ、余は秀子の様を見て其の最と静かに落ち着いて居るにも驚いた、秀子は虎の恐ろしい事を知って居るか知って居ないか、見た所では殆ど知って居ないと思わるるほど落ち着いて、虎に向ったまま睨み合って居る、真に泰然自若とは此の事だ、感じの有る人間に、何うして此の様な場合に斯うも落ち着く事が出来るだろう、余りの事に虎までも少し呆気に取られ、相手の胆略を計り兼ねて大事を取って居るらしい、併し何時まで虎が猶予して居る者ではない、助けるなら今の間だ、今の間に何とかせねば成らぬ。
何とかとて何と仕様もないけれど、ないと捨て置く事は出来ぬ、余は必死と考えて、何うしても余自から虎と秀子との間へ飛び降り自分を秀子の身代りとして虎に噛ませ、爾して其の間に秀子を逃げさせる外はないと決心した、余の今瞰いて居る窓から、銃器室へ飛び降りるは左まで六ずかしいことでない、けれど飛び降りると、虎と秀子との間へは行かず、丁度虎の背後へ落ちる事になる、併し夫も好かろう、虎は自分の背後へ急に何者か落ちて来たを知り、驚いて振り向くに違いない。振り向いて何うするだろう、直ちに余を取って押えて噛み殺すが一つ、驚いて元自分の這入って来た窓から逃げ出すが一つだ、若し逃げ出すとせば此の上もない幸いよ、丁度虎の這入って来たと思われる窓は、秀子の這入って来た入口と相対し、庭の方に開け放しに成って居る、虎が立ち去る気に成れば、何時でも立ち去ることは出来るのだ、唯少し工合の悪い事は、其の窓から立ち去るには、背後に落ちた余の身体を踏み越して行かねばならぬ、虎が少しも余を害せずに穏かに踏み越して行く様な事をするだろうか、少々覚束無いけれど仕方がない、運を天に任せて遣って見るのサ。
余が此の通り決心したのは少しの間だ、話すには長く掛かるけれど、実際は二分とは経って居ぬ、余は何事も決心すると同時に実行する流儀ゆえ、思案の定まるが否や直ぐに窓の横木へ手を掛けて足から先へ虎の背後の方へブラ下り、自分の身を真直ぐに垂れて置いて爾して手を離し、丁度虎の背後へドシリと大きな音をさせて落ちた、兼ねて余は体操に熟達して居る故、是しきの事は訳も無く不断ならば下へ落ちて倒れもせずに其のまま立って居る所だのに、此の時は余ほど心が騒いで居たと見え、落ちる
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