、縦しや当分の間なりとも逃して置く外はない、秀子は此の声に又|一入《ひとしお》腹を立つ様に、余に振り向いて「逃れるとは何を逃れるのです、罪もないのに」余「イヤ、探偵森主水が貴女を捕縛する許りに成って居るのをヤット私が二日だけ猶予を請うたのです、二日の間に私は貴女の清浄潔白な証拠か証人かを得る為に巴里へ行き、今帰る所ですが、既にお聞きの通り其の目的を達せずに来たのですから、茲で三人の智恵を以て、何うか当分の貴女の身の隠れ場所及び其の方法を定めねば」余の言葉の未だ終らぬに戸の外から「イヤ二日の猶予は既に切れたのですから其の相談の無益と云う事をお知らせに、nイ此の森主水が参りました」と云って此の室へ這入って来る者が有る、見れば確かに、先刻忍び提灯で此の家の門札を読んで居た怪しい男である、是が森主水であったとは驚いた。
第八十九回 呼吸の根
探偵森主水は何しに来た、松谷秀子を捕縛に来た、エエ、彼の来るのが今半時も遅かったなら、余は充分秀子を逃す丈の手続きを運んだ者を、其の相談の未だ定まらぬ中に遣って来たとは、其所が探偵の機敏な所とは云え折も折、時も時だ、実に余は驚いた、余のみでない権田時介も驚いた、松谷秀子も驚いた、暫し三人で顔見合わす許りである。
一人驚かぬは森主水だ、彼は先にも記した通り大きな眼鏡を掛け、自分の面相を変えては居るが三人の驚く様を平気で見て憎らしいほど落ち着いて、徐ろに其の眼鏡を取り外し、冷かに笑って「アハハハ、此の眼鏡が大層役に立ちました、是がなければ丸部さん此の門口で貴方に気附かれる所でしたよ、実は此の婦人が」と云いつつ秀子の方を目で指して「幽霊塔を出る様子ゆえ、或いは世に云う風を喰って逃げ出すのでは有るまいかと、姿を変えて後を尾けて来たのですが、イヤ逃げ出す為ではなかったけれど、尾けて来た甲斐は有りましたよ、何も彼も戸の外で立ち聴きして、今まで合点の行かぬと思ったことも皆合点が行きました、全体立ち聴きと云う奴は余り気持の好い者でなく、又、余り安心して居られぬ仕事でも有りませんけれど、此の様な功能があるから、此の職業では用いずに居られません、丸部さん、丸部さん、貴方も口ほどには信用の出来ぬ方ですねえ、決して松谷秀子を逃さぬと私へ固く保証し、其の保証の為に二日間の猶予を得て置いて爾して御自分が先に立って秀子を無事の地に逃れさせる議を持ち出すなどと
前へ
次へ
全267ページ中192ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング