謝する事は謝しますが爾まで私の意を重んじて下さるのに、タッタ一つ肝腎の願いを聞き入れて下さらぬとは何故です、何も六かしい事ではなく、唯後に至って私の妻に成ると約束して下されば好いのです、其の約束をさえ得れば、貴女の身に火が降り掛って来ようとも必ず無難に助けて上げます。何の様な場合でも場合相応に手段を廻らせ、助かる道を開くのは私の得意です、云わずとも貴女は御存知の筈ですが、秀子さん、何で私の妻になる約束が出来ませんか」秀子は殆ど恨めしげに嘆息して「男と云う者は、何で愛だの妻だのと云う無理な事ばかり望むのでしょう、男と男と助け合う様に、又は女と女と助け合う様に、少しも愛などと云う約束なしに真の友達か兄妹の様に為って女を助ける事は出来ぬ者でしょうか」権田「夫は出来ぬとも限りませんが、貴女に向っては出来ぬ事です、貴女の様な美しい方に向い、木石でない以上は唯友達と云う丈で満足して居る事は誰とても出来ません、決して男の罪ではなく、男を酔わせる様な姿に生まれて居るが貴女の不運です」秀子は全く泣き声と為って「エ、此の様な顔に、此の様な顔に」と云い、後は声さえも続かぬが、何だか自ェの顔の美しいのを恨む様だ、権田「此の様な顔にとて、元から美人に生まれて居るから誰も恨む事は有りません、若し貴女は、私の言葉を聞かず、妻と云う約束をせずに、私を敵に取ったら何うなると思います、今でさえ御自分で運の盡きだと云う程の敵が有りますのに私から恨まれれば」秀子「ハイ貴方に恨まれたら此の世に居る事さえ出来ません、夫は貴方が能く御存じです」権田「それ御覧なさい。私を敵に取っては貴女の身も立ちますまい、夫だのに何故生涯を私の保護の下に置く事が出来ません、夫婦と為らねば決して長い生涯を助け合うと云う道はないのです」秀子「貴方は恐迫なさるのです、困って居る女を恐迫するとは紳士の成され方で有りません、貴方が紳士らしくない振舞を為さって爾して私に愛せよとは御無理です、紳士の心のない人を所天とする事は出来ません」
 権田「ハイ紳士か紳士でないか知らぬが、有らゆる手を盡していけぬ時は私も恐迫も用います、腕力も用います」
 争いは次第に荒々しく成って権田は終に秀子の手を捕えようとした様子だ、秀子は逃げる様に立って、丁度余の居る所へ馳せて来た、余は茲に潜んで居た事を知られ、秀子に紳士らしくないと思われるは辛いけれど最早立ち上
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