に考えない。
奴隷のこの絶対的服従は、彼等をしていわゆる奴隷根性の卑劣に陥らしむるとともに、また一般の道徳の上にもはなはだしき頽敗を帰さしめた。一体人が道徳的に完成せられるのは、これを消極的に言えば、他人を害するようなそして自分を堕落さすような行為を、ほとんど本能的に避ける徳性を得ることにある。しかるに何等の非難または刑罪の恐れもなく、かつ何等の保護も抵抗もないものの上に、容赦《ようしゃ》なくその出来心のいっさいを満足さすというがごときは、これとまったく反対の効果を生ずるのは言うまでもない。飽くことを知らない暴慢と残虐とが蔓《はび》こる。
かくして社会の中間にあるものは、弱者を虐遇することに馴れると同時に、また強者に対しては自ら奴隷の役目を演ずることに馴れた。小主人は自らの奴隷の前に傲慢なるとともに、大主人の前には自らまったく奴隷の態度を学んだ。
強者に対する盲目の絶対の服従、これが奴隷制度の生んだ一大道徳律である。そして主人および酋長に対するこの奴隷根性が、その後の道徳進化の上に、いかなる影響を及ぼしたかは次に見たい。
三
先きにも言ったごとく、奴隷は駄獣である、家畜である。そして奴隷はまず、家畜の中の犬を真似た。
カフィール族はその酋長に会うたびに、「私はあなた様の犬でございます」と挨拶をするという。しかし自分の身を犬に較べるこの風習は、ただに言葉の上ばかりでなくその身振りや処作においても、人間としての躰の許せるだけ犬の真似をするということが、ほとんど例外もないほどにいたるところの野蛮人の間に行われている。
まずその一般の方法としては、着物の幾分かを脱いで、地に伏して、そして土挨を被るにある。
アフリカは奴隷制度のもっとも厳格なところであった。したがってこの犬の真似の儀式も、ほとんど極端なまでに行われている。
アルゲン島附近のアザナギス族は、酋長の前に出ると、裸になって、額を地につけて、頭と肩とに砂を被る。イシニー族もやはりまず着物を脱いで、腹這いになって、這いながら口へ砂をつめる。
クラツバートン氏によれば、氏がカトウンガの酋長に謁見した時、二十余名の大官がいずれも腰まで裸になって、腹這いになったまま顔も胸も土まみれになって酋長の傍へ這いずって行って、初めてそこに坐って酋長と言葉を交えることを許されたのを見たという。
ところがこ
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング