から誰か出て来た。姿は違うが、その歩きかたは確かにWだ。その旧式のビロードの服が、人夫か土方の帳つけというように見せるので、よくそう言ってからかわれているのだが、どこから借りて来たのか、今日は黒い長いマントなぞを着こんで、やはり黒のソフトの前の方を上に折りまげたのをかぶって、足駄をカラカラ鳴らしてやって来るところは、どう見ても立派な不良少年だ。
 僕はWから荷物を受取ってもう発車しようとしている列車に飛び乗った。列車は走りだした。Wは手をあげた。僕も手をあげてそれに応じた。これが日本での同志との最後の別れなのだ。
 前の上海行きの時には、Rがこの役目を勤めてくれた。偶然その日に鎌倉へ遊びに来たのだったが、行先きは言わずにただちょっと行衛不明になるんだから手伝ってくれと頼んで、トランクを一つ持って貰って、一里ばかりある大船の停車場まで一緒に行った。もう夜更けだったが、ちょいちょい人通りはあった。そして家を出る時に何だか見つかったような気がしたので、後ろから来るあかりはみな追手のように思われて、二人ともずいぶんびくびくしながら行った。ことに一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走って来て、やがてまたそれらしい自動車が戻って来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟していた。
 それが何でもなく通りすぎた時、僕はRに本当の目的を話してないことが堪らなく済まなかった。そして幾度もそれを言おうとして、口まで出て来るのをようやくのことでとめた。彼は決して信用のできない同志ではなかった。しかしまだ僕等の仲間にはいってから日も浅かった。そしてごく狭い意味での僕等の団体とは直接に何の関係もなかった。
 そして僕は無事に大船から下りの列車に、彼は上りの列車に乗った。これはあとでKから聞いたことだが、Rはその時のことを誰にも話さず、またKにもその他の誰にもかつて僕の行衛を尋ねることがなかったそうだ。僕は今でもまだ、彼の顔を見るたびに、ひそかに当時のことを彼にわびそして感謝している。
 Wの姿が見えなくなるとすぐ、僕はボーイに顔を見られないように外套の襟を高く立てて、車内にはいって寝台の中にもぐりこんだ。僕はまだ僕の顔の一番の特徴の、鬚をそり落していなかったのだ。そして一と寝入りした夜中に、そっと起きて、洗面場へ行って上下とも綺麗に鬚をそってしまった。そしてWが持って来てくれたふろしき包みの荷物を、トランクの中に入れかえた。荷物といっても、途中の船の中でやる予定の、仕事の材料と原稿紙とだけなのだ。そしてまた一と寝入りした。
 移動警察の成績が大へんいいので、十五日からその人数を今までの幾倍とかにするという新聞の記事が出たばかりの時だ。その成績のいい一つの例に挙げられては大へんだ。が、それらしい顔もついに見ないで、翌朝無事に神戸に着いた。
 神戸は、実は僕にとっては、大きな鬼門なのだ。先きにコズロフの追放されるのを送りに来た時、警察本部の外事課や特別高等課に顔を出しているので、大勢のスパイどもによく顔を見知られている筈だ。そこから船に乗るのはずいぶん剣呑だとも思ったが、しかしそれよりもっと剣呑な横浜からよりは、安全だと思った。横浜の警官でほとんど僕の顔を知らないものはないくらいなのだ。長年鎌倉や逗子にいた間に、代る代るいろんな奴が尾行に来ている。
 改札口を出ようとすると、どこの停車場にも大てい一人二人はいるのだが、怪しい目つきの男が一人見はっている。そして僕が通り過ぎたあとですぐ、改札の男の方へ走り寄ったような気はいがした。僕はすぐ車に乗って、いい加減のところまで走らせて、それからさらに車をかえてあるホテルまで行った。
 あした出る筈で、その切符を買って来てあるある船は、あさっての出帆に延びていた。仕方なしに、その日と翌日の二日は、ホテルの一室に引っこんで、近く共訳で出すある本の原稿を直して暮した。そしてたった一度、昼飯後の散歩にぶらぶらそとへ出て見たが、道で改造社の二、三人が車に乗って、その晩のアインシュタインの講演のビラをまいて歩いているのにぶつかった。僕は僕の顔がはたして彼等に分るかどうかと思って、わざとその方へ近づいて行って、車の正面のところでちょっと立ち止まって見た。が、分る筈はない。かつて僕が入獄する数日前、僕のための送別会があった時、僕は頭を一分刈りにして顔を綺麗にそって、すっかり囚人面になって出かけて行った。そして室の片隅のテーブルに座を占めていたが、僕のすぐ前に来て腰掛けたものでも、すぐにそれを僕と気のついたものはなかったくらいだ。
 船の中に四、五人の私服がはいりこんで、あちこちとうろうろしたり、僕が乗った二等の喫煙室に坐りこんだりしていた。ずいぶん気味は悪い。しかしまたそれをひやかすのもちょっと面白い。船の出るまでキャビンの中に閉じ籠っているのも癪だし、僕はよほどの自信をもって、喫煙室とデッキの間をぶらぶらしていた。そして一度は、私服らしい三、四人のもののほかは誰もはいっていなかった喫煙室に行って、彼等の横顔をながめながら煙草をふかしていた。
 船は門司を通過して長崎に着いた。そこでもやはり、二人の制服と四、五人の私服とがはいって来た。そして乗客の日本人を一人一人つかまえて何か調べ始めた。日本人といっても、船はイギリスの船なのだから、二等には僕ともで四人しかいないのだ。僕の番はすぐに来た。が、それはむしろあっけないくらいに無事に過ぎた。そして彼等は一人のフィリッピンの学生をつかまえて何やかやとひつっこく尋ねていた。
 上海に着いた、そこの税関の出口にも、やはり私服らしいのが二人見はっていた。警視庁から四人とか五人とか出張して来ているそうだから、たぶんそれなのだろう。
 僕は税関を出るとすぐ、馬車を呼んで走らした。そしてしばらく行ってから角々で二、三度あとをふり返って見たが、あとをつけて来るらしいものは何にもなかった。

    三

 最初僕はこの上海に上陸することが一番難関だと思っていた。そしてたぶんここで捕まるものとまず覚悟して、捕まった上での逃げ道までもそっと考えていたのであった。それが、こうして何のこともなくコトコト馬車を走らしているとなると、少々張合いぬけの感じがしないでもない。
「フランス租界へ。」
 御者にはただこう言っただけなのだが、上海の銀座通り大馬路を通りぬけて、二大歓楽場の新世界の角から大世界の方へ、馬車は先年初めてここに来た時と同じ道を走って行く。
 僕はここで、もう幾度も洩らして来たこの先年の旅のことを、少し詳しく思いだすことを許して貰いたい。

 八月の末頃だった。朝鮮仮政府の首要の地位にいる一青年Mが、鎌倉の僕の家にふいと訪ねて来た。要件は、要するに、近く上海で、(二十一字削除)を開きたいのだが、そして今はただ日本の参加を待っているだけなのだが、それに出席してくれないかと言うのだ。
 僕等はかつて、(五十二字削除)というものを組織したことがあった。が、その組織後間もなく、例の赤旗事件のために、僕等日本の同志の大部分が投獄され、そしてそれと同時に和親会の諸同志の上にも厳重な監視が加えられて、会員のほとんど全部は日本に止まることができなくなってしまった。その次に起ったのが例の大逆事件だ。そしてそれ以来僕等は、ずいぶん長い間、僕等自身の運動はもとより、諸外国の同志との交通もまったく不可能にされてしまった。
 それが今、この朝鮮の同志がもたらして来た(七字削除)の提案によって、こんどは社会主義というもっと狭い範囲で再び復活されようとするのだ。僕は喜んですぐさまそれを応ずるのほかはなかった。
 が、それと同時に、というよりも、それよりももっとという方が本当かも知れない。僕をして進んでそれに応じさせた、ある特殊の原因があった。それは、Mがすでにそれを堺や山川と相談して、そして二人から体よくそれを拒絶されたということであった。
 Mを密使として送った上海の同志等は、最初、(二十六字削除)。そしてMはまずひそかに堺と会ってそれを謀った。しかし、まだ組織中でもありまたごく雑ぱくな分子を含んでいる社会主義同盟が、すぐさまそれに加わるということは勿論、創立委員会でそれを相談するということですらも、とうてい不可能だった。第一にはまず、事が非常な秘密を保たれなければならなかった。そして第二には、(二十五字削除)の主なる人達がそれを助けているということは、いろんな異論とともに非常な危険をも伴わなければならなかった。
 そこでMはさらに個人としての加盟を堺と山川とに申込んだ。が、二人とも、大して理由にならない理由で、それを拒絶した。そしてさらにまた、誰かほかに出席することのできそうな人の推選を頼んだが、そしてその中には僕の名もあったそうだが、二人はそれもとうていあるまいと言って拒絶した。Mは仕方なしに、それでは、せめてその会議に賛成するという何か書いたものを土産にして持って帰りたいと頼んだが、それも体よく拒絶された。
 そしてMはほとんど絶望の末に僕のところへ来たのだ。僕は堺や山川がMをどこまで信用していいのか悪いのか分らないという腹を持っていたことはよく分った。僕にもその腹はあったのだ。よしMが誰からどんな信任状や紹介状を持って来たところで、外国の同志との連絡のなかった僕等には、その信任状や紹介状そのものがすでに信用されないのだ。しかし一、二時間と話ししているうちに、Mが本物かどうかぐらいのことは分る。そして本物とさえ分れば、その持って来た話に、多少は乗ってもいい訳だ。しかも堺や山川は、当時すでに、ほとんど、あるいはまったくと言ってもよかったかも知れない、共産主義に傾いていたのだ。
 が、堺や山川の腹の中には、それよりももっと大きな、あるものがあったのだ。それは危険の感じだ。(二十一字削除)、ということには、まかり間違うと内乱罪にひっかけられる恐れがある。これはその当時僕等がみんな持っていた恐怖だ。そしてこの恐怖が、堺や山川をして、上海の同志等の提案にまるで乗らせなかった、一番の原因なのだ。
 Mもそのことは十分に知っていたようだった。そしてその使命を果たすことのできない絶望とともに、日本のいわゆる(十四字削除)らしいかの絶望をもひそかに持っているようだった。彼自身も、見つかればすぐ捕まる、そして幾年の間か分らない入獄の危険を冒してやって来たのだ。そして日本のいわゆる同志は誰一人その話に見向いてもくれないのだ。そしてMはその会議の計画を僕に話しするのにも、最初から僕に正面から加盟を求めるというよりも、むしろごく臆病に、まるで義理の悪い借金にでも来たかのようなおずおずした態度で、まず僕の腹をさぐって見るような話しぶりであった。そして僕がその廻りくどい長い話を黙って一応聞いた上で、「よし行こう」と一言言った時には、彼はむしろ自分の耳を疑っているかのようにすら見えた。

 実は、この上海行きのことは、その二年ほど前にも僕に計画があったのだった。僕は、日本での運動の困難を感ずるたびに、この上海を考えないことはできなかった。支那の同志との連絡を新しくすることを思わない訳には行かなかった。そして僕は、いよいよそれを実行する間際になったある日、山川と荒畑とにその計画を洩らした。堺にも山川を通じて、その席に出てくれるよう頼んだのだが、堺はそれに応じなかった。堺と僕との間にはその少し以前からある個人的確執があったのだ。山川と荒畑とはただ僕の言うことだけをごく冷淡に聞いてくれただけだった。二人とも、やはりその少し以前から、僕とは大ぶ冷淡な仲になっていたのだ。もっとも、僕のこの計画は中途で失敗して、まだ日本を去らない前に再び東京に帰って来ることを余儀なくされたに過ぎなかった。

 社会主義同盟は、いろんな一般的の目的を持っていたと同時に、十数年以前からのこれらの親しかった旧い同志等の確執や冷淡を和らげるという、特殊の一目的をも持っていた。が、それは無駄だった。僕等の間には、いろんな感情の行き違いの上
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