\一九二三年四月三十日、パリにて――
[#改ページ]
牢屋の歌
一
[#ここから2字下げ]
パリに
すきなこと二つあり
女の世話のないのと
牢屋の酒とたばこ
[#ここで字下げ終わり]
へたな演説には、きっと長口上の、何やかの申しわけの前置きがある。歌だってやはりそうだろう。と、まず前置きの前置きをして置いて、さて、そろそろと長口上に移る。
パリの女の世話のないことは、前の「パリの便所」の中で話した。が、そこでは、物がちょっと論文めいた形式になったために、大分かみしも[#「かみしも」に傍点]をつけて、その中の「僕」という人間がいつもその世話のない女を逃げまわっているように体裁をかざっていた。
が、体裁はどこまでも体裁で、事実の上から言えばそれは真赤なうそだ。逃げまわっていたどころじゃない。追っかけまわしていたくらいなのだ。
その追っかけまわしていた女の中に、ドリイという踊り子が一人いた。バル・タバレンと言えば、パリへ行った外国人で知らないもののない、あまり上品でない、ごく有名な踊り場だ。そこの、と言ってもちっとも自慢にならないのだが、とにかくそこの女の中でのえりぬきなのだ。
僕はその踊り場のすぐそばに下宿していたのだが、どうもパリは危険らしい様子なので、三月のなかばにこのわかれにくいドリイにわかれて、リヨンへ逃げた。そしてすぐドイツ行きの仕度にかかった。
それにはまず、ドイツ領事のヴィザをもらう前に、警察本部の出国許可証をもらわなければならない。それが、警察へ行くたびに、あしたやる、あさってやる、という調子でごく小きざみに延び延びになって、一カ月あまり過ぎた。むしゃくしゃもする。もうメーデーも近づく。パリもなつかしい。ちょっと行って見ようとなってまた出かけた。
そしてその翌晩、夕飯を食いがてらオペラの近所へ行って、そこからさらに時間を計ってドリイに会いに行こうと思った。が、そのオペラの近くのグラン・キャフェで、前に一度あそんだことのある、そして二度目の約束の時に何かの都合で会えなかって、それきりになっているある女につかまってしまった。
その翌日はメーデーだ。今晩こそはドリイと思っていると、その日の午後、こんどはとんでもない警察につかまってしまった。
秩序紊乱、官吏抗拒、旅券規則違反というような名をつけられて、警察に一晩、警視庁に一晩とめられて、三日目に未決監のプリゾン・ド・ラ・サンテに送られた。
のん気な牢屋だ。一日ベッドの上に横になって、煙草の輪を吹いていてもいい。酒も葡萄酒とビールとなら、机の上に瓶をならべて、一日ちびりちびりやっていてもいい。
酒のことはまたあとで書く。その前にドリイの歌を一つ入れたい。
[#ここから2字下げ]
独房の
実はベッドのソファの上に
葉巻のけむり
バル・タバレンの踊り子ドリイ
[#ここで字下げ終わり]
窓のそとは春だ。すぐそばの高い煉瓦塀を越えて、街路樹のマロニエの若葉がにおっている。なすことなしに、ベッドの上に横になって、そのすき通るような新緑をながめている。そして葉巻の灰を落しながら、ふと薄紫のけむりに籠っている室の中に目を移すと、そこにドリイの踊り姿が現れて来る。彼女はよく薄紫の踊り着を着ていた。そしてそれが一番よく彼女に似合った。
二
[#ここから2字下げ]
パリの牢のスウヴニルに
酒の味でも
飲み覚えよか
Ca《サァ》 va《ヴァ》 ! Ca《サァ》 va《ヴァ》 !
[#ここで字下げ終わり]
僕はもう五、六年前から、ほんの少しでもいいから酒を飲むようにと、始終医者からすすめられていた。
が、飲めないものはどうしても飲めない。日本酒なら、小さな盃の五分の一も甜[#「甜」はママ]めると、爪の先まで真っ赤になって、胸は早鐘のように動悸うつ。奈良漬けを五切れ六切れ食べてもやはりおなじようになる。サイダーですらも、コップに二杯も飲むと、ちょっとポオとする。
ただウィスキーが一番うまいようなので、毎日茶匙に一杯ずつ紅茶の中に入れて飲んでいたが、それだけでもやはりちょっと苦しいくらいの気持になる。
フランスに来てからは、いや上海からフランス船に乗って出てからは、食事のたびに葡萄酒が一本食卓に出るのだが、最初ちょっとなめて見てあんまり渋かったので、その後は見向いてもみなかった。
けれども、牢にはいってみて、差入れ許可の品目の中に葡萄酒とビールの名がはいっているのを見出して、怠屈まぎれにそのどっちかを飲み覚えようと思った。ビールはにがくていけない。葡萄酒も、赤いんだと渋いが、白いんなら飲んで飲めないこともあるまい。女子供だって、お茶でも飲むように、がぶりがぶりやっているんだから。と、きめて、ある日、差し入れの弁当のほかに、白葡萄酒を一
前へ
次へ
全40ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング