ホに立って、手紙の束を手早く一つ一つ選り分けている男が一人、ほかの人間とは風も顔も少し違っていた。日本で言ってもちょっと芸術家といった風に頭の毛を長く延ばして髯のない白い顔をみんなの間に光らしていた。ネクタイもしていた。服も、黒の、とにかくそんなに汚れていないのを着ていた。僕はその男をコロメルだときめてそのそばへ行って、君がコロメルか、と聞いた。そうだ、と言う。僕は手をさし出しながら、僕はこうこうだと言えば、彼は僕の手を堅く握りしめながら、そうか、よく来た、と言って、すぐ日本の事情を問う。腰をかけろという椅子もないのだ。
「どこか近所のホテルへ泊りたいんだが。」
と言うと、
「それじゃ私が案内しましょう。」
という、女らしい声が僕のうしろでする。ふり返って見ると、まだ若い、しかし日本人にしてもせいの低い、色の大して白くない、唇の大きくて厚い、ただ目だけがぱっちりと大きく開いているほかにあんまり西洋人らしくない女だ。風もその辺で見る野蛮人と別に変りはない。
とにかくその女の後について、[#「ついて、」は底本では「ついて、、」]二、三丁行って、ちょっとした横町にはいると、ほとんど軒並みにホテルの看板がさがっている。みんな汚ならしい家ばかりだ。女はその中の多少よさそうな一軒を指さして、あのホテルへ行って見ようと言う。看板にはグランドホテル何とかと書いてある。が、はいって見れば、要するに木賃宿なのだ。今あいているという三階のある室に通された。敷物も何にも敷いてない狭い室の中には、ダブル・ベッド一つと、鏡付きの大きな箪笥一つと、机一つと、椅子二つと、陶器の水入れや金だらいを載せた洗面台とで、ほとんど一ぱいになっている。そしてその一方の隅っこに、自炊のできるようにガスが置いてある。すべてが汚ならしく汚れた、そして欠けたり傷ついたりしたものばかりだ。ちょっといやな臭いまでもする。が、感心に、今まで登って来た梯子段や廊下はずいぶん暗かったが室の中はまずあかるい。窓からそとはかなり遠くまで広く開いている。
「なかなかいい室でしょう。」
と連れの女は自慢らしく言う。とても、お世辞にもいいとは言えない。実は、今までもあちこちのいろんなホテルに泊っているんだが、こんなうちは初めて見たのだ。が、フランスへ行ったら労働者町に住んで見たい、もしできれば労働者の家庭の中に住んで見たい、とはかねてから思っていた。
「いいでしょう、ここにきめよう。」
と僕も仕方なしに、ではあるがまた、ここに住むことについて大きな好奇心を持って答えた。
そしてまず、一カ月百フラン(その時の相場で日本の金の十二円五十銭)という室代の幾分かを払った。東京の木賃宿の一日五十銭に較べればよほど安い。ガスは一サンティムの銅貨を一つ小さな穴の中に入れれば、三度の食事ぐらいには使えるだけの量が出て来るのだそうだ。
すると、こんどは宿帳をつけてくれと言う。今までも、どこのホテルでも宿帳はつけて来たが、そしていい加減に書いて来たが、ここではカルト・ディダンティテ(警察の身元証明書)を見せろと言うのだ。何のことかよく分らんから、連れの女に聞いて見ると、フランスでは外国人はもとより内国人ですらも、みなその写真を一枚はりつけた警察の身元証明書を持っていなければならんのだと言う。勿論そんなものは持っていない。で、仕方なしに、その女と一緒になって、いい加減にそこをごまかしてしまった。
「フランスはずいぶんうるさいんですね。」
僕はホテルを出て、社へ置いて来た荷物を取りに行く途で、女につぶやいた。
「ええ、そしてあの身元証明書がないと、すぐ警察へ引っぱって行かれて、罰金か牢を仰せつかるんです。外国人ならその上にすぐ追放ですね。」
が、僕は女のこの返事が終るか終らないうちに、社のすぐ前の角に制服の巡査が三人突っ立っているのを見た。みな社の方を向いて、社の入口ばかりを見つめているようなのだ。
「おや、制服が立っていますね。」
僕は少々不審に思って聞いた。
「例のベルトン事件以来、ずっとこうなんです。」
と言って、彼女は、最近に王党の一首領を暗殺した女無政府主義者ジェルメン・ベルトンの名を出した。そしてその以前からも、集会は勿論厳重な監視をされるし、家宅捜索もやる、通信も一々調べる、尾行もやる、遠慮なく警察へ引っぱって行く、という風だったのだそうだ。
「はあ、やっぱり日本と同じことなんだな。」
僕はそう思いながら、たぶんその巡査どもの視線を浴びながらだろう、ル・リベテエル社の中へはいって行った。
[#地付き]――一九二三年四月五日、リヨンにて――
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パリの便所
一
パリにつくとすぐ、仲間の一人の女に案内されて、その連中の巣くっている家の近所の、あるホテルへつれ
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