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Kも大ぶ興奮しながら言った。
「僕もそうは思っているんだがね。問題はまず何よりも金なんだ。」
「どのくらい要るんです。」
「さあ、ちょっと見当はつかないがね。最低のところで千円あれば、とにかく向うへ行って、まだ二、三カ月の滞在費は残ろうと思うんだ。」
「そのくらいなら何とかなるでしょう。あとはまたあとのことにして。」
「僕もそうきめているんだ。で、あした一日金策に廻って見て、その上ではっきりきめようと思うんだ。」
「旅行券は?」
「そんなものは要らないよ。もう、とうの昔に、うまく胡麻化して行く方法をちゃんと研究してあるんだから。ただその方法を講ずるのにちょっとひまがかかるから、あしたじゅうにきめないと、大会に間に合いそうもないんだ。」
Kはこの二つの条件を聞いて、すっかり安心したらしかった。そして下へ降りて行った。
しかし僕にはまだ、そうやすやすと安心はできなかった。実はその借金の当てがほとんどなかったのだ。借りれる本屋からは、もう借りれるだけ、というよりもそれ以上に借りている。そして、約束の原稿は、まだほとんどどこへも何にも渡してない。それに、もしまだ借りれるとしても、いやどうしても借りなければならんのだが、それは留守中の社や家族の費用に当てなければならない。ほかに二、三人多少金を持っている友人はあるが、それもほんの少々の金であれば時々貰ったこともあるが、少しもまとまった金はくれるかどうか分らない。それにこの頃はずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずいずん」]景気が悪いんだから。
そんなことをそれからそれへと、いろいろと寝床の中で考えて見たが、要するに考えてきまることではない。あした早く起きて、あちこち当って見ることだ、そうきめて、僕は頭と目とを疲らせる眠り薬の、一週間ほど前から読みかけている『其角研究』を読み始めた。
翌日は尾行をまいて歩き廻った。はたして思うように行かない。夕方になって、うんざりして帰りかけたが、ふと一人の友人のことを思い浮んで、そこへ電話をかけて見た。そして、最後の幽かな希望のそこで、案外世話なく話がついた。
それでもう事はきまった。
その翌日は、九州の郷里に帰っている女房と子供とを呼びよせに、Mを使いにやった。関西支局のWも女房や子供と前後して上京した。
準備は何にも要らない。ただ小さなスーツケース一つ持って出かければいいのだ。が、その前に、正月号の雑誌に約束した原稿と、やはり正月に出す筈のある単行本とを書いてしまわなければならない。そんなことで愚図愚図している間に、もう暮れ近いことだ、ようやく貰って来た金が半分ばかりに減ってしまった。そして、それをまたようやくのことで借り埋めて、十二月十一日の晩ひそかに家を脱け出た。
二
家を脱け出ることにはもう馴れ切っている。しかしそれも、尾行をまいて出ることがすぐ知れていい時と、当分の間知れては困る時とがある。前の場合だと何でもないが、後の場合だとちょっと厄介だ。
去年の夏日本から追放されたロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時には、そのあとで僕は三日ばかり時々大きな声で一人で英語で話していた。が、二、三日ならそんなことでもして何とか胡麻化して行けるが、一週間も十日も胡麻化そうとなるとちょっと困る。
一昨々年の十月、僕はひそかに上海へ行った。その時には、上海に着いてしまうまでは、僕が家を出たことをその筋に知らせたくなかった。で、夜遅く家を出たのであったが、その翌日から僕は病気で寝ているということになった。しかし大して広い家でもなし、それに往来から十分のぞかれる家でもあったので、尾行どもはすぐ疑いだした。そして四つになる女の子をつかまえて、幾度もききただして見た。そしてその後、その尾行の一人が僕にこんな話をした。
「魔子ちゃんにはとても敵いませんよ。パパさんいる? と聞くと、うんと言うんでしょう。でも可笑しいと思って、こんどはパパさんいないの? と聞くと、やっぱりうんと言うんです。おやと思いながら、またパパさんいる? と聞くと、やっぱりまたうんと言うんです。そしてこんどは、パパさんいないの? いるの? と聞くと、うんうんと二つうなずいて逃げて行ってしまうんです。そんな風でとうとう十日ばかりの間どっちともはっきりしませんでしたよ。」
こんどだって、駒込の家はやはり狭いし、そとから十分のぞかれる。すぐ前のあき地の小さな稲荷さんの小舎の中にいる尾行どもには、家の中の話し声を聞いているだけでも、いるかいないかは大てい知れよう。
もっとも、四つの魔子は六つになった。それだけ利口にもなっている筈だ。そして女房は、子供をだますのは可哀そうだからと言って、よく
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